2006-01-01から1年間の記事一覧

当時の様子を事件に関与していなかった内田定槌領事の証言から伺い知ることができるので、現代文で全文を再現してみます。昭和14年1月、内田定槌氏述在勤各地における主要事件の回顧在職中、私の経験した事柄で、世間に余り知られず、又後世に歴史として残さ…

同化政策

植民地支配においては弾圧が行われるのは世界に共通するが、日本の朝鮮支配では、それが徹底した同化政策を伴う点に特色があった。つまり、朝鮮は属国でもなく、植民地でもなく、朝鮮は日本の「延長」であると日本の政府は言っていた。その根拠は、朝鮮は日…

甲申事変のその後

国王救出の要請をうけた清国軍が出動し、少数の日本軍を破り、開化派政権は文字どおり三日天下で倒れ、竹添公使は、金玉均らの亡命者とともに長崎に逃げ帰った。この間、混乱したソウルで、居住民約30名が殺された。日本政府は、井上馨を全権として、軍艦…

壬午軍乱のその後

壬午軍乱後、朝鮮は清国と日本にそれぞれ使節団を派遣した。清国に派遣された使節団は壬午軍乱の鎮圧のために直接出兵し協力してくれたことに対する謝礼で、日本に派遣された使節団は、軍乱時に惹起された日本人殺傷に対する陳謝と、済物浦条約の批准交換に…

甲申事件の真実

明治17年十二月四日、京城北部典洞に新設された郵政局の開局式が催された。朝鮮国が万国郵便連合に加入してできた郵政局の開局祝賀晩餐会であったので、京城駐在の米・英・清などの公使、領事らが出席し、当時の朝鮮政府の韓圭稜(前営使)、李祖淵(左営…

甲申事変

甲申事変江華島事件によって日本は朝鮮を開国させ、朝鮮にたいして強力に進出した。そのために清国の地位が失われ、日本の独占的地位がきずかれて行った。しかし、清国は同治中興とよばれる諸政刷新を遂行し、失われた権威を取りも戻すために再び朝鮮に手を…

済物浦条約

花房公使の報告を受けた日本政府は7月31日,緊急閣議を開き対策を協議したが、伊藤博文は外遊中だったので山県の強行意見が支配し、従来からの通商関係の諸問題を一気に解決しようとした。また、この機会に朝鮮領土の一部の分割も目論んでいた。しかし、実際…

朝鮮の金

朝鮮は開港以来開港地では商人たちの間に日本の円貨が信用をえて、取引上ひんぱんに流通していた。そこで、円貨もとより、日本銀行兌換券や手形を流通させた。当時日本から商品が大量に輸入されていたので、朝鮮の商人たちも日本の貨幣を持っておれば、日本…

明治9年、日朝修好条規にとって、朝鮮への日本の圧力がつよまったことは、朝鮮に深刻な打撃を与えた。とくに開国後数年のうちに関税無税の特権を利用し、日本は朝鮮の対外貿易をほぼ独占し、朝鮮国内に、欧米資本主義の工業製品が日本の手を通じて大量に流…

日朝修好条規により、米は朝鮮から大量に日本に持ち去られたことは朝鮮の政治的社会的混乱を拡大させ壬午の事変のおおきな原因となった。 壬午の事変は壬午軍乱と言われるように、最初に暴動を起こしたのは朝鮮人の兵士たちです。 朝鮮政府は、大幅な軍政改…

2月10日、6隻の艦船を率い、弁理大臣黒田清隆は江華島に上陸した。鎖国を続ける朝鮮に開国を迫るためである。黒田が上陸のさいに、ガトリング砲を4門装備した海兵歩兵中隊約二百名を儀仗兵として事前に上陸させていた。 この堂々たる軍事的示唆は、かって…

政府は明治9年1月遺韓特派全権弁理大臣黒田清隆、副使井上肇を任命し、6隻の軍艦で対馬から出航し、1月15日、釜山に入港した。同港に2隻の軍艦が入港しており、計8隻に達し、空前の壮観を呈していた。政府の方針は修好条約の締結にあったが、万が一朝鮮より…

長崎に帰港した雲揚号の打電は9月28日夜7時本省に届く。事件は翌々日東京日日が第一報を掲載し、発生を知った郵便報知は事件の確認に手間取り10月2日の紙面で朝鮮が砲撃したのは当然であり、非は日本にあるとする見方のあることも明確に伝えた。その…

明治6年朝鮮王朝では政変があり,大院君が引退し高宗の妃の閔氏派が政権を握った。そこで日本は明治7年から開国の交渉を再開し,日本側の森山茂と閔氏政権の代表朴斉実とのあいだに正式会談が始まった。しかし閔氏政府内に残っていた大院君派が強くこれに反…

明治6年、久光にあてたウイリスの意見書

いかなる時代においても、またいかなる場所においても、政治権力によって不当に強制された階級差別は、悪い結果しか生み出さないことがあきらかになっている。なかんずく、そういう制度の下では民衆は卑屈になり、自国の政治が誰の手によって運用されている…

明治政府の仮借ない態度

朝鮮や中国はこのままでは数年の間に西欧列強に分割されるからアジアの悪友との交わりを断ち、アジア脱して西洋諸国と進退を共にし、隣国にたいしても西洋国なみの仮借ない態度を取ったのでしょう。「西洋諸国と進退を共にし、隣国にたいしても西洋国なみの…

日本組織の底流にあるもの

わが国の行政は中央集権主義をとっていたところに大きな特色のひとつがあった。それはすべての行政は国の専権に属するという考え方で、それにより国家全体の秩序を維持し、統一を図るために、本来国の専権に属するものとした。一切の行政の権力的支えとして…

一銭五厘の命

徳川幕府とは天下を支配する覇権をにぎり、徳川家の便利私営を事としていて、民人を見ること塵灰の如くであった。そこに明治維新が起こり、幕府に類する手に国政が委ねられ、それは、同じく民人は塵灰にひとしかった。徳川幕府の士農工商の身分制度は開放さ…

天皇責任が見えない人は侵略・虐殺・残忍な行為など痛みを等身大の重みで感じとることなど、到底、不可能である。 もしもその痛みを多少とも感じ取ろうとするなら、少なくても、抑圧された者からの目から正史を見ようと努力しつづけなければならない。 天皇…

虚像と実像の間

民衆には不思議な気まぐれがある!歴史家の手からでなく、詩人の手から自分の歴史を受取りたいと言うのだ。むきだしの諸事実の忠実な報告ではなく、本源的な詩――そこから諸事実が生じた――の中にふたたび溶かされた諸事実を浴するのだ。*1 歴史の虚像もまた、…

初代内閣総理大臣は多淫多情二代目は殺人鬼

内閣総理大臣第一号になった伊藤博文には、女好きで有名だった。待合升田屋の浜子をはじめ、武田屋のお虎、向島の百合、岐阜の金華、神戸と常磐屋のお国、赤坂屋浜子というぐあいに。明治、大正、昭和前期のオピニオンリーダーで、雑誌「日本人」などを主宰…

至道無難

ある日、無難は商家を訪ねて、主人と話をしていた。ちょうどそこに別の商家からの使いが来て、主人に包んだ金を渡して帰っていた。そこから間もなく、無難もそこを辞去した。主人が金のことを思い出したのは、しばらくしてからであった。ところが、どこを捜…

人間の本来の姿

歴史の中で信じられない数の人びとが、信じられない理由で死に、殺されてきました。 この信じられないことが、まさに「当たり前」のこととして、日常的に世界的に繰り広げられていたという事実は、裏を返せば、いつまたそのようなことが「当たり前」のことと…

富国強兵

水戸藩主・徳川斉昭に代表される攘夷は、富国強兵を説くようになります。産業、経済を発展させて国を富ませ、その豊かになった財政資金で軍隊を強化して、列強から日本を守れという理屈です。この富国強兵策は明治政府にも受け継がれ、日本の国家目標になり…

征韓論

「旧来の陋習を破り」と開国を宣言した五カ条の御誓文の発布と同時に「万里の波擣を開拓し、国威を四方に宣布せん」という明治天皇の詔勅も発表され、明治新政府の海外拡張方針が叙述に表している幕府の危機の深刻化につれて、勝海舟などが反幕の空気を外に…

明治維新

明治維新の三傑たちも、結局それぞれの思いのため、流れにより幕府を倒し、西欧文化を急速にとりいれ近代化した。 しかし、当時の列強欧米対外政策は、大航海時代からスペイン、ホルトガルは積極的な植民地支配を世界に広げていたし、イギリス、オランダ、フ…

歴史の見るとは

勝者の中にも敗者はいる、敗者の中にも勝者はいる。大切なのは人が如何に生きたかです。 時代時代に自分なりに考え行動して、そして、死んで時代の流れに埋没して忘れられる。 しかし、その生き様は現在の人々に思いだされ、疑似体験として生きかえることも…

天子に対する民人の普遍の思い

天子に対する民人の普遍の思い お陽さま昇れば野良しごと お陽さま沈めば帰って休む 井戸を掘っては水を飲み 田を耕してはめしを食う 天子さまのお力なんぞ あってもなくても関係ねぇ・・民人の心のなかに、普遍的に息づいてきた思いであろう。歴史をみれば…

朝臣と藩士の間

戊辰戦役後、政治実権を把握していくのが、各藩から召されて、朝廷の直接の朝臣となった徴士と呼ばれる人々であった。彼らは、依然として出身藩の藩主との君臣関係に結ばれながら、藩を超えた朝廷のたる臣として活動するという複雑な状況に置かれていた。慶…

王政復古のクーデター

慶応3年12月9日岩倉は西郷指揮下の薩藩兵、つづいて尾張、越前安芸、土佐の藩兵が出動して御所の門および要所を占拠するなかで、昼すぎに朝臣と諸侯の前で王政復古の大号令を発した。王政復古政府が樹立され、今までの武家政治の諸制度は一瞬のうちに合法性…