甲申事変

甲申事変

江華島事件によって日本は朝鮮を開国させ、朝鮮にたいして強力に進出した。そのために清国の地位が失われ、日本の独占的地位がきずかれて行った。しかし、清国は同治中興とよばれる諸政刷新を遂行し、失われた権威を取りも戻すために再び朝鮮に手をのばしてきた。日本人の商人や商品に対抗して清国の商人が進出し、日本の独占的地位を抑えるために、欧米列国への開港を朝鮮に進め、同時に、列国と朝鮮とを仲介しることによって宗主国としての立場を回復しようとし、着々とその工作を進めた。

明治15年の壬午の軍乱は清国軍により鎮圧され、清の指導のもとに閔氏政府が再建された。日本も軍隊を送ったが、すでに朝鮮政局は清軍の指導もとにおかれて、その清と対決する力は日本にはなかった。日本は済物浦条約により凶徒の処分、賠償、謝罪、公使館保護の駐兵、開港場を朝鮮から得るだけで辛抱せねばならなかった。

清の進出は日本の後退という国際関係の中で、朝鮮の官人層は二つの系統に分かれて対立した。かって、大院君の保守政策に反対した閔氏一族は、いまは清に依存する保守勢力になり、要路の大官の大部分がこの派についた。この一派を「事大党」といった。これに対して、閔氏一族の事大党に反対し、日本と結び日本の維新にならって改革を敢行しようとする人々であり、それを「独立党」といった。独立党の幹部、金玉均、朴泳孝などは日本に渡って名士と協議し、日本の援助による朝鮮の改革を企てた。

そして、明治17年、清国が安南問題でと仏国と戦い、清が敗北したという報せが伝わると、井上外務卿は朝鮮の野心家を慫慂して内乱を起さしめ、その内政に干渉して朝鮮のおける地位を回復しようとした。朝鮮人金玉均は、また井上外務卿の計策に乗り、これを利用してし、己の野心を大成しようと計り、朝廷の反対党を暗殺し、政権を奪取せんと試みたけれど、井上外務卿が使用したる朝鮮公使竹添信一郎なる者は唯一介の文士の士たるに過ぎざる故、事に臨み狼狽恐縮して物の役に立たず、清国の駐在官袁世凱のために京城を追われ、金玉均以下の亡命を率いて日本に逃げ帰りたることは世に知れたたる当時の事実だった。

朝鮮に我が勢力を逞うせんとする策は、このとき清国の為に挫折されると、清仏の戦いも和睦に帰したるを以って、井上外務卿は従来からの志を遂行することができず、自ら朝鮮に主張して、曖昧の中に事を纏め帰朝した。