天下とは天下の天下であって自然の天下である

万万人(万人の強調)は身も心も同じ同一の一人である。一人の人間がいったいだれを天子とし、だれを民とするのか。目の前の人々を見てみよ、背丈に大差なく、心もほぼ同じであり、みな同じ身体と心をもっている。よって自然において天子というものはありえない。天子とは私利私欲をもって上に立つという誤りを犯して以来、人間世界に出現したもので、これをしらずに尊いものとして奉るのは、とんでもない誤りである。こんなことも知らないとはひどい誤りである。さらにいえば、歴史上天子様が現れてからその下に初めて争乱が起こった、その後いつまでも天道を盗んで止むことがないので、争乱はいつまでも絶えることがない。天下をはなはだしく害するものであり、悪をはびこらせる道具である。
農とは生きること。習いも学びもしなくても、天地と一体となって耕し織ることによって、安らかに食い安らかに着て、少しの利己的な行いをするという罪がなく、まことの天子そのものである。このように農民こそ本当の生知・安行の天子である。
この農民への称号を盗んで、天道を掠めるものらの名としているのは、転倒した誤りである。
人間とは米穀を食べて成長するのだから、人間とは米穀そのものである。これ以外のありようはない。天子も食うことで生きている。死んでしまえば土にかえりもとの穀物、つまり食となる。したがって何を言い何を語ろうと、聖人の教説も説法も、泣くも喚くもすべて食のためである。
天子の初めは知に長け権謀を好んだ。そこで私心をもって勝手に天子となったのである。上にたって万民の天下をおのれ一人で私物化し、耕さずに貪り食って民人の上に君臨したために、いつしか贅沢になずむようになり、これが人の世を乱世とした始めでる。
「天子は民をわが子である」と言ったというが、はておかしきことを言うものである。
天子は耕さずに民の米穀を貪り食っているのだから、天子は民に養われておきながら「民はわが子」とうそぶくとは、なんたる高慢な言い草であろうか、おのれを飾って天地自然の法則を歪めておきながら、このような転倒したせりふを吐いているのだ、はなはだしい誤りである。
また、「民に施す」と言っているが、自ら耕さず、米一粒・銭一銭生み出しておらず、天子のものなどはただの一つもないのである。一体どうして民人に施す力があるというのであろうか、おのれは耕さず貪り食って常に民人の施しを受けておきながら、逆に民人に施すとはもってのほかである。
なにからなにまで民人に養われている身でありながら、それを省みずに民に施すと言っているのだ、おのれが民に養なわれている民の子でありながら、民はわが子などとほざいている。狂人とか言いようがない。
天下とは天下の天下であって自然の天下である。天子のものではない。だから勝手に天下とは譲ったり譲られたりするものではない。農民こそ天子である。