2016-01-01から1年間の記事一覧

徳川慶喜の宣言

「余は祖宗以来伝承の政権を擲ち、広く天下の諸侯を聚め、公議を尽し輿論を採りて国是を定めんことを朝廷に奏聞したるに、先帝の御遺命にて幼主を撫翼するの摂政殿下を始め、宮・堂上方数名、余が政権を還すことを承諾したり。さりながら、諸侯の公議相決す…

徳川慶喜公伝

【旧幕府軍を朝敵にできなかった薩長】 三日坂兵北進の報急なるに及び、薩長二藩は更に兵を増遣し、開戦の決を岩倉前中将に迫れり。曰く「去年九日以来、断然叡慮を以て徳川家の処置・并に会桑の進退等御達あるべきに、其事行はれず、遂に尾越二藩の周旋とな…

昔夢会筆記

御参内夜を徹せし事 慶応三年十月十五日御参内ありて、政権奉還の勅許を蒙らせられしが、御退出は翌十六日の暁七つ時に及びたり。斯かる徹夜の御参内は、何か重大なる議事にてもあらせられしか、承りたく候。 そは当時の習慣をだに詳にせば、不審の起らずと…

山内容堂の「幼沖の天子」発言

山内容堂の「幼沖の天子」発言、実は後世の偽造 京都大学助教授の高橋秀直氏は著書『幕末維新の政治と天皇』にて、同時代の史料『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯峨実愛手記』など全てに 岩倉具視の叱責の部分だけが記載がないこと、およびその後も会議に…

慶応三年後半の政局

大久保らが鹿児島に帰り、密勅を提示したことにより、藩主茂久は藩兵を率いて、十一月十三日鹿児島を出港し、三田尻を経由して二十日には大坂に着いた。また、長州は折から、長州処分伝達のため家老が上坂せよ、との幕命があったことに名をかりで、毛利内匠…

密勅

賊臣慶喜を殄戮せよ,この月(十月)十三日、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の諸卿から、薩摩、長門の二藩に、左の密勅【注一】を下し賜わったと言う。 詔(みことのり)す。源慶喜、累世の威を籍(か)り、闔族(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだ…

奪玉計画

慶応三年十一月十八日、長州藩の海の玄関三田尻では、「薩長芸三藩出兵同盟」が約定されていた。一、三藩とも浪華根拠のこと。一、根拠守衛、薩藩ニ小隊へ長芸のうち相加へ候事。一、薩侯御一手は京師を専任とす。一、長芸のうち一藩、京師を応援す。一、薩…

島津久光

応丁卯の夏、更に上京す、料らすも脚気の病に罹り、永く滞京する能はす、……季秋に至り病勢愈加り、終に腰脚瘘痺寸歩も行かす、時勢日に紛擾に赴と雖とも……已を得す請て藩に帰る、爾来荏苒病蓐に在り……」(島津久光「謹上書」)これは、久光自身が明治7年に振…

小御所会議

慶喜の大政奉還にも動ぜず、西郷、大久保らは最後の「賊臣慶喜を討てという密勅」のカードを使って兵を集め、力によるクーデターの謀略に望みを賭ける。不意をつかれた宮門警備の会津、桑名両藩はなすすべもなく二条城に退出している。ここに徳川に変わり新…

大政奉還の上表文

大政奉還の上表文○十月十四日 徳川慶喜奏聞 臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不…

伊集院兼寛

薩軍士官伊集院兼寛は、つぎのような手記を残している。「戊辰正月三日、幕兵鳥羽伏見両街道に廻り、戦端既に開け、—度達するや、宮中疑懼の念変じて、歓喜の声となり、前には、西郷、大久保の宮中に在るや、蛇蝎の如く、近づくもの なかりしを、陸続来りて…

薩、長、土、芸四藩の観兵式

土佐藩兵を率いてこの観兵式に臨んだ谷干城の日記風の回想録から、当日の模様を見てみよう。「二十七日に至り日御門〔建春門〕前に於て、薩、長、土、芸四藩の観兵式の天覧あり。流石に薩は、服装帽も皆一様にて英式に依り、大太鼓、小太鼓、笛等の楽隊を先…

太平洋戦争の遠因

日本の徳川が支配していた政治を田舎者達が一か八かのクーデターで、いっきに幕府が倒壊し、天下の政権を握った。しかし、倒幕側の田舎者達が政治を興していかなければならなかった。最大の課題は、これからの日本の政治と自分達が政治を動かすことの理由が…

京都薩摩邸において西郷と面会

市来の言によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など貴任者 は俗吏の者を除けて有志の者(尊王討幕の賛成者か)を嵌め込んであり、浪士隊が充分活動できるよぅできるだけ力を尽したとのべている。京都薩摩邸において西郷と面会した様子である。落合君 其夜は…

伊牟田尚平

伊牟田尚平(いむた・しょうへい)(1832〜69年)といわれても、知る人は少ないかもしれない。 明治維新の表の立役者を西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀だとすれば、裏の立役者は伊牟田だったといえる。 米国公使館通弁官のヒュースケン暗殺から、さま…

明治政府の戦争予算

たしかに、異例の圧倒的な勝利ではありました。しかし、そもそも日本軍は実力よりもはるかにカネを借金で用意して戦争に臨んでいたのです。1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド(約13億円)の外貨公債を日…

西鄕

国力を考えれば欧米列強を敵として戦うことなど無謀だと悟り開国路線を取ったのが幕府で、それに反対して外敵を追い払う攘夷を叫んだのが朝廷の公家連中であり、薩長や土佐の志士たちで、幕府を弱体化させたのはこの連中です。この攘夷派を利用して幕府に対…

ベルツの日記

おそらくいつかは叫ばれることだろう。「ああ、困ったことだ!自分の呼び出した精霊(ガイスト)たちから、今では逃れられない!」と。これらの精霊(ガイスト)のうちで最もよくないのは、はき違えたアメリカ渡来の自由精霊(ガイスト)である。もし日本人…

ベルツの日記とW・S・クラークとケーベル博士

「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのま!〕」と わたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは…

徳川慶喜

明治三十四年のころ、有栖川宮が来日したスペインの王族をもてなしたとき、慶喜は夕食会に招待されて出席した。有栖川宮には天皇に引き合わせてもらった恩があり、また生来の外人好きということもあって出席したのだ。その席に伊藤がいた。このとき伊藤は第…

尊皇攘夷

ペリ-の来航以来、日本の政情は大揺れに揺れてはいたが、幕府そのものを否定するものはいなかった。政治的な命題は、開国か攘夷か、であった。幕府にあっては井伊大老が開国策を推し進めたために、攘夷派から目の敵にされたが、それは井伊の思想と存在を否定…

武士

志士を自称する倒幕派の連中には、現状から這い上がろうと名分として、尊王を掲げ、ひたすら駈け回る下級武士が多く、そのほとんどは討幕の道具とて利用された。 下級武士出身の西郷、大久保らは、動乱という事態に身を置時、勝たなければ我が身が消えるとす…

一死以て大罪を謝し奉る

会議終了後、鈴木首相に対して感謝の辞を述べ、同時に会議の席上強硬に反対したことを心から託びた。阿南氏は偕行社の自室に帰り、割腹して最後を遂げる。 遺書に日く 一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅を確信しつ…

対米戦争に入る前の一般大衆

対米戦争に入る前の日中戦争時代、一般大衆は戦争に反対どころか戦争賛成で、軍部や政府を心から支持し、協力していた。戦争初期に軍や政府に反対した人はかなりいたようだが。しかし、その人たちは共産党員やごく一部の学者で、一般大衆とは無縁の人だ。も…

日本軍への残虐な戦犯

「1945年、全世界で戦争が行われていた頃、驚くべきドラマが人里離れたボルネオ島のジャングルで展開されていた。 関わったのはアメリカ空軍の兵士たち、現地のダヤクの人々、そしてイギリス陸軍のトム・ハリソン少佐だ。それは、米軍戦闘機が、隔絶されたボ…

明治維新とは

明治維新とは、これまで上役などに反抗できなかった下層の武士などが、権威や伝統を打ち破る姿である。そういう古い形成にすがって生きていた人々にとってはなんともいやな現象ではあろう。外圧は、氏素姓とかなんとかいう非合理なもののため埋れていた人間…

義務教育

高,中,小各学校の義務教育で、歴史における戦争の教え方を国が統制しています。かっては、生徒児童の大多数が戦争に対し否定的評価をとっていたのに、順応工作が浸透して、最近では戦争を肯定的に評価するものが増加して、政府に批判できない従順な子供たち…

天皇に対する国民の教育

時代は、時とともに進化せず、退化に向かうと、恐竜の絶滅に教わるまでもないです。 たとえば、明治以降、天皇に対する敬礼も、形式を強めながら、退化に向かっています。 明治7年、天皇のお通りの時、平伏しなくてよい。卓や馬を下り、帽子をとり、道ばたに…

内村鑑三

明治藩閥政治家の功罪を論じて「憲法が發布されて以來、日本は道徳的には段々と悪くなった。特に政治家の堕落、愛國心の減退は最も著しくある。法律と繁育とで日本を改築しようとした薩長の政治家等の浅薄き加減今に至りて嗤ふに堪へたりである。伊藤井上な…

戦争下の怨嗟の声

召集令状が来れば、近所の人たちは口では「おめでとう」と言うが、「勝つてくるぞと勇ましく」と旗をふっての見送りの中で、「子どもをかかえて身をふるわして泣いている妻を見受ける光景もあったようです。戦死兵士の遺児で小学四年生だった梶川博司は「お…