島津久光

応丁卯の夏、更に上京す、料らすも脚気の病に罹り、永く滞京する能はす、……季秋に至り病勢愈加り、終に腰脚瘘痺寸歩も行かす、時勢日に紛擾に赴と雖とも……已を得す請て藩に帰る、爾来荏苒病蓐に在り……」(島津久光「謹上書」)

これは、久光自身が明治7年に振り返った話です。慶応三年下半期以降体調を崩し、彼の気力が衰えていたこと示すもので、この時点で、久光の意思に基づく藩の最高方針決定を原理とする薩摩藩の在り方に大きな変化が生じたのである。

この久光の謹上書のあとに
「戊辰の乱起ると雖とも病脚猶依然たり、故にに耳砲声を聞かす目旌旗を見す遺憾極りなし、幸にして黄泉の客とならさる のみ、……に髪を断ち洋服を著て(好き勝手なことを行ない主張していることに触れたあと)、王宰たる者、目見さるが如く、耳聴かさるか如く、其為す所を任す、意あつて然るか如し、臣病牀に在つて如何ともする能はす、唯切歯歎息するのみ」と続く。

これから久光の言葉で、体調を崩し、藩政にほとんどタッチ し得なくなったことがうかがえる。久光および小松の眼が届かなくなることで、西郷•大久保両者の暴走が始まった。とくに大久保は再上洛した京都にあって、茂久を、操り人形として自分たちの思う方向に引っ張っていき、それは、大政奉還後の小松や島津久光が必ずしも望んでいたことではなかったのだ。