奪玉計画

慶応三年十一月十八日、長州藩の海の玄関三田尻では、「薩長芸三藩出兵同盟」が約定されていた。

一、三藩とも浪華根拠のこと。

一、根拠守衛、薩藩ニ小隊へ長芸のうち相加へ候事。

一、薩侯御一手は京師を専任とす。

一、長芸のうち一藩、京師を応援す。

一、薩侯御著坂二十一日にて、二十三日御入京。(長州藩は)廿六日、三田尻出浮(輸送船上)の兵出帆、西之宮著。薩藩より京師の模様報知の上、進入の・。

一、○義は山崎路よ西之宮へ脱、詰まり芸州までの事。(維新史 第五巻)

最後の項目の○は、マルでは なく、タマないしはギョクの符号である。事がうまく運ばなかった場合には、玉体を擁して京都 から山崎を経て西宮へ脱出し、船に乗せて海路広島へ拉し去るという「奪玉」の計画である。