2018-10-01から1ヶ月間の記事一覧

幕藩体制

徳川の時代は権力と権威とが分離していた。公卿は位高くしても禄は少なく、老中は政権を以て大諸侯を御していた。老中は一方で強いように見えるけれども、実際は大諸侯に対して非常に弱い面がある。一方で老中は権力の快感を味わうかと思うと、しかし実際は…

明治の鉄道

築地梁山泊における討論の第一の成果は新橋ー横浜間の鉄道の敷設。大隈は封建制を一掃するには、山河自然の境界を破ることが必要で、それには山野を跋渉(ばっしょう)する鉄道の敷設にしくものは無いと考えた。また豊作、凶作によって国民が蒙る甚大な被害…

伊藤博文サギにあう

新橋・横浜の鉄道敷設の権利は、当初徳川によってアメリカに付与されていた。それを覆したのがイギリスのハリーパークス公使です。 六九年十一月五日、三条太政大臣部で、岩倉、沢 (外務卿)、大隙(大蔵大輔)らがパークスと会見、その助言と推薦により、同月…

維新政府の鉄道事業

利権回収をするかたわら、大蔵大輔大隙重信らが中心となって独自の鉄道敷設計画をすすめた。彼らの考では鉄 道は経済開発の上に必須のものであるのみならず、「別テ非常緩急ノ節戒厳出兵迅速二相整ヒ富強ノ為メ武備肝要 ノモノ二相聞候間一日モ速二相開度儀…

明治政府の方針

「国力を養ひ、取り易(やす)き朝鮮、満州、支那を切随(したが)へ、交易にて魯墨(ロシアとアメリカ)に失ふ所は、亦(ま)た土地にて鮮満にて償ふべし」 (吉田松陰が神奈川条約調印を機に述べた言葉) (『未完の明治維新』田中彰,三省堂選書131ページ…

「女工と結核」と題する演説

石原修は九大医学部で衛生学を専攻した医学士であった。農商務省社会局に入り、紡績工場の監督官として各地を視察してまわった。各地を歩きまわり、数年の精査をへて綿密な基礎資料をつくり,一つを職務上の報告として内務省へ、一つを学位論文として大学へ…

薩長政府の功罪

維新後の薩長政府は、急速に強国を建設することをめざした。そのために多大な資本が必要であった。その必要資金は第一に国民の大半を占める農民の税によってまかなわれていた。維新以後もそれ以前と同じく、農民の負担のもとに成立していたことにかわりなか…

江戸時代における先人の業績

関孝和の数学、いわゆる関流の算学の分布は,非常に驚いたことに、日本のほとんど各地に農業技術と結びついた形でひろがっている。 それに、五十歳まで家業に励んでいた井能忠敬が、地理学の勉強をはじめている。彼の故郷である佐原村の周辺に関流の算学の塾…

陸奥宗光 日本人

明治7年元旦、陸奥は日本人と題する一文を起草、薩長の片方の統領たる木戸にあてた。そして、下野する。 「日本人とは、西は薩摩の絶地より、東は奥蝦夷までの間に生育して、凡そ此帝国政府の下に支配せらるる者みな此称あり。既に此称あれば、各人其尊卑、…