維新政府の鉄道事業

利権回収をするかたわら、大蔵大輔大隙重信らが中心となって独自の鉄道敷設計画をすすめた。彼らの考では鉄 道は経済開発の上に必須のものであるのみならず、「別テ非常緩急ノ節戒厳出兵迅速二相整ヒ富強ノ為メ武備肝要 ノモノ二相聞候間一日モ速二相開度儀」(六九年十月十一日、外務省上申)と、軍事的警察的必要がとくに重視された。 鉄道の有用なことはわかっても、政府は建設経費に苦しんだ。六九年十一月五日、三条太政大臣邸で、岩倉、沢 (外務卿)、大隙(大蔵大輔)らがパークスと会見、その助言と推薦により、同月十一日、おりから清国上海税関の総 税務司をやめて帰国の途中、一もうけをたくらんで日本に立よったイギリス人レイと、日本政府との間に、東京 より大阪をへて兵庫に達する幹線と、東京・横浜間および琵琶湖・敦賀間の支線を布設すること、工事費は 概算三百万ポンド、そのうちさしあたり百万ポンドの外債を海関税及び鉄道純益を担保にして募り、その業務はレイに委任すること、技師・職工のやとい入れ、材料の購入についてもすべてこれをレイに委任することという契約 が成立した。
当時政府部内の保守派の牙城であった弾正台は、鉄道建設のような不急の冗費はやめて速かに軍艦製造の費にあてよと猛烈に反対し、その他にも種々の反対があったが、民間商人の支持はだんぜん強かった。美濃の人谷暢卿などは七〇年(明治三年)正月、上毛の生糸生産地帯とその輸出港横浜とをつなぐ鉄道の敷設の急務を政府に建白している。谷の経歴はよくわからないが、鉄道の産業的意義に主として注目したてんは、わが国の産業的発展を反映している。横浜の貿易商高島嘉右衛門もしきりに大隈や伊藤博文(大蔵少輔)に鉄道の必要を説き、彼自身がレイと共同してその敷設権を獲得しようとしていた。大隈や伊藤はこのような資本家の支持にはげまされて、政府内部の反対派を説きふせて右の契約をむすぶところまでこぎつけた。ところが、レイは実は植民地で詐欺的なもうけをねらう山師であり、日本政府とは公債の利率一割二分と契約し、ロンドンで募憤するには九分の利とし、その差三 分は彼が横取りしようとしていたことが、英国の新聞を見たわが外交官によって発見された。そこでいろいろの交渉があって、政府はようやくレイとの契約を解除し、一八七〇年四月、改めて英国東洋銀行と契約し、九分利付公債(担保は海関税)百万ポンド(四八〇万両)をロンドンで募集することとした。その発行価格は証書額面百ポンドにつき九八ポンド、まったく植民地的な不利な条件であった。のみならずレイとの契約解除により、その賠償と してニ万ポンド余りをとられた。レイのような詐欺漢に対してすらわが正当の権利をまもることができなかった。 英国公使が日本の鉄道の独立を保持するよう「援助」するといっても、このようなことで、つまり英国資本の植民 地的投資先として日本を独占しようとするものにすぎなかつた(「日本鉄道史」「大隈侯八十五年史」「明治政史」「大日本 外交文書」第二・三巻)