2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧

太平洋戦争時の日本軍の戦況虚偽報道は当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?

開戦時はたしかに日本軍が攻勢だったようですが、負けだしてからも国民には勝ち続けていると報道されていたと聞きます。負けだしてからの戦況について、当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?天皇さえも騙されていたのでしょうか? 軍令部作戦課長をつ…

戦後、昭和天皇も東条について「彼程、朕の意見を直ちに実行に移したものはない」と木下道雄侍従次長に語っています。(木下道雄『側近日誌』146頁、1946年2月12日)

戦後、東条も天皇について東京裁判で次のようなことを証言しています。 日本の臣民が陛下の御意思に反してかれこれするということはありえぬことである。首相就任の直前、武藤軍務局長や石井軍務課高級課医員らがどんなことがあっても仏印撤兵問題は譲るべき…

太平洋戦争時の日本軍の戦況虚偽報道は当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?

開戦時はたしかに日本軍が攻勢だったようですが、負けだしてからも国民には勝ち続けていると報道されていたと聞きます。負けだしてからの戦況について、当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?天皇さえも騙されていたのでしょうか? 敗戦後になって木戸…

第2次世界大戦の終わりに、追い詰められた軍部・政府が降状を受け入れなかった理由って何なんですか?

第2次世界大戦の終わりに、追い詰められた軍部・政府が降状を受け入れなかった理由は非常に分かりやすく簡単なことです。十 われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようと する意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐…

第2次世界大戦のとき、なぜゴムが必要だったんですか?

ゴムは飛行機や自動車などの生産に必ず必要なもので、日本とドイツのゴムのストックは枯渇に直面していました。英独開戦以来、マレーから日本に輸入されていた量は極めて少量であったので、昭和15年以降は、日本国内のストックは日に日に減少一途を辿ってい…

米、英、支三国宣言

(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ) 一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ 二、合衆国、英帝国…

7月28日午後4時よりの記者会見でのポツダム宣言に対する鈴木総理の発言 「私は三国共同声明はカイロ宣言の焼き直しであると考えている。政府としては、なんら重大な価値ありとは認めていない。ただ黙殺するのみである。われわれは 戦争完遂に邁進するのみである」、でも、「首相の黙殺発言があろうがなかろうが 原爆は投下されただろう 。実際にこのとき原爆投下命令は発せられていたからだ」という意見がある。

そもそも、黙殺とは、黙って知らん顔をしているというのが常識。それを黙殺と口にし、活字にしてしまえば、もうこれは先方に、無視(IGNORM)、拒絶(REJECT)と、とられても仕方がない。黙殺という語がどう英訳されようと、首相の発言はその用語と文脈から…

沖縄戦についてです。軍は初めから、県民の人命の保護という措置を、とらなかったように見えますが、事実でしょうか。サイパンみたいに、住民もろとも玉砕のつもりだったのでしょうか。もし、そうだとしたら、

沖縄県民の犠牲の責任は、現地の牛島、太田司令官にあるのでしょうか。それとも、大本営の責任なのでしょうか。 細川護貞著『情報天皇に達せず』の1944年12月16日条に次の記述が見られる。 「昨十五日高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島…

黙殺

ポツダム宣言を黙殺しなければ、原爆投下やシ連参戦は無かったか? 東郷外相は、27日朝参内拝謁してこの宣言について詳細に御明申し上げ、日本としては、これはしばらくこのままにして意思表示せずソ連の態度を見極めたうえ措置することが適当と思考する旨言…

聖断

鈴木貫太郎が、ポツダム宣言を黙殺しなければ、広島、長崎への原爆投下は無かったという人もいますが、いかがでしょうか。 「ポ宣言はカイロ宣言の焼き直しだと思う。…..ただ黙殺するだけである。われわれは断固として戦争完遂に邁進するのみである」と声明…

戦争責任者の問題

たとえばミッチェル女史の「風と共に去りぬ」では、アメリカの南北戦争のころに解放された奴隷たちが近代社会の人々なら当然に人間に対する冒涜と感ずるはずのものを、主人の温情をかえって頼りにするような物語が展開されています。これは、多かれ少なかれ…

奴隷制 英雄

歴史とは 真面目な疑問があります。 人を殺すことは駄目な事です。最低の事だと思います。 けれど、昔の英雄とか崇められてる人たちや歴史の授業に出てくる人達は 人をバンバン殺してますよね。 なぜ今でも崇められたり、偉人として教科書に載っているのでし…

明治初期の江戸の没落町人の子であった長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん)は次のように述べています。

「明治維新後権威を振ったものは、新聞界でも実業界でも政治界でも、皆「「田舎漢」だと、そのころ徳富蘇峰が「国民の友」の論文でも書いていたが、時代ののさばり出るその「田舎漢」を軽蔑して、引込思案になる風が、変革期の没落市民の子には間々あった。…

薩摩藩、長州藩を中心とした倒幕の動きについてどう思いますか。

薩摩は長州と結んで、慶喜とは並び立つことができない敵手として、新しい国家を建設するその指導権を争うとしていたのである。慶喜が在京十万石以上の諸藩の重臣を二条城に招いて大政奉還の決意を表明します。大政奉還の一挙によって名声を高めた慶喜がロッ…

明治維新の本質

>日本史の中で一番の大嘘はなんでしょうか?江戸時代は、徳川家康の実力で作り上げ、その実力を持った権威によって、支えられていました。明治の時代になると、維新革命を行ったものらは、ほとんどは下級藩士や貧乏公家の若者であったので、権威もなく実力も…