2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧

明治維新 幕末推移

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は薩摩の体制派により頓挫された。この事態に立ちいたった西郷らが打った手は倒幕の密勅の発給だが、慶喜の大政奉還によって、不発に終わる。少数派の西觶らが次に打って出たのが、天皇の外祖父中山忠能を動か…

薩摩藩焼き討ち事件について

>12月23日の薩摩藩焼き討ち事件について、その報告を受けた西郷が国許に送った報告には「いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。全體九日以来の處、大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を…

明治維新

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は頓挫した。薩摩藩内では、出兵反対の建白書が数多く提出されていた。国元の藩士は出兵反対で、西郷を支持する藩士は少なかった。では、薩摩藩の京都代表とも言うべき西郷が京都詰の藩士の間で支持されていた…

出流山尊皇義軍

>(「出流山尊皇義軍」栗原彦三郎著)P72〜73(「出流山尊皇義軍」栗原彦三郎著) 次に注意すべき人は権田直助である。・・・慶長三年西觶隆盛と謀って江戶薩藩邸に入って関東擾乱の計に参加し、又上洛して岩倉具視の內意を受け、名を刈田積穂と変え王…

薩邸事件略記 落合直亮の手記

薩邸事件略記 小島滿將、落合直亮、權田直助等ハ同主義ノ爲メニ無二ノ親友ナリ、常ニ往來シテ朝家ノ衰頽ヲ歎キ、幕府ノ専横、外夷ノ跋扈ヲ怒リ如何ニシテカ王政ニ復シ皇威ヲ海外ニ輝カサシメムト日夜苦慮スト雖モ微力宿意ヲ達スル期トテハナカリケリ。 慶応…

西郷隆盛の蓑田伝兵衛宛書簡

西郷隆盛の蓑田伝兵衛宛書簡です(慶応4年1月1日条)。 『江戸におひて諸方え浪士相起、動亂に及候趣に被相聞候間、必、諸方え義擧いたし候事かと被相察申候。京師におひても相響候趣と被相聞爰許にて壮士の者暴發不致様御達御座候得共、いまだ譯も不相分、…

江戸城放火事件の真相

江戸城放火事件の真相史談会速記禄同席:市来四郎・岡谷重実・寺師宗徳・沢度広孝市来君 八官町に大輪田と云ふ鰻屋がありました。其所は乱暴仲間の面 々の散財所で、其所に婆が明治二三年頃まで居りました、私は行った 事がある、其婆が丁寧に話したことがあ…

大久保と西郷の意見書

憤怒の書状 越えて十八日、内府は大阪から、時事について左の書状〔注一〕を上がった。臣慶喜、不肖の身をもって、従来無渝の寵恩を蒙り奉り、恐感悚戴の至りに堪え奉らず。及ばずながら夙夜寝食を安んぜず、苦心焦慮、宇内の形勢を熟察仕り、政権一途に出で…

江戸薩摩屋敷焼失事件の真相

(落合直亮氏の口述) 「一体此間突然思起しましたが、右鹿児島邸に集りましたの は其際に及んで出来たので御坐りますが、其集りました同志の申合せは一朝一夕の事では無くして、年来相往来し、相計って居りましたところの結果が、右の一挙に及びましたので…

吉井幸輔書簡

爾來御壮昌奉賀候。當地意外之形勢に立至り、小子も先頃浪花より歸京、無事罷在候。乍憚御安意可被下候。右變態に付、君公早々御上京被爲在候様、朝命相下り、小松家(帯刀)、西、大(西郷・大久保)にも同敷歸國相成、來月中旬迄には、御上京可被爲在候に…