江戸城放火事件の真相

江戸城放火事件の真相

史談会速記禄

同席:市来四郎・岡谷重実・寺師宗徳・沢度広孝

市来君
八官町に大輪田と云ふ鰻屋がありました。其所は乱暴仲間の面 々の散財所で、其所に婆が明治二三年頃まで居りました、私は行った 事がある、其婆が丁寧に話したことがあります、アナタ方は本丸の焼 けた火の出所はお聞きでござりませぬかと咄したことがあります。

落合君
夫れは能く聞きませぬが、私共の方に集った人数の手ではござりませぬけれども、何れ伊牟田、益満の両人の内から手が廻つたものであると云ふ事を聞て居ります。

寺師君
伊牟田杯の話でありますか、玄関に這入って団炭を草に包みて 行つて揷入れて付けたとか申しますが、

岡谷君
あれは将軍御上洛の後でありましたか、

市来君
十二月二十二日でござりませう、

寺師君
其時伊牟田などが団炭を風呂敷に包みて塀を越へて這入って、本丸の玄関の畳を毁して其下に団炭を入れて点けたと云ふことに聞きますが、

市来君
まっちの流行りかけで、長崎から畳をこすりて火の出る物をも つて来て居ると云ふことであつたとやら申します、

岡谷君
どこから這入つたものでござりませうか、

市来君
名は余程堅固なものであれども、這入って見れば番人は居ても逃げて仕舞て、無人の地同様であったと後に伊牟田が言ったさうで す、其顚末は近い中に伊集院兼寛に話させませう、是れは始めより西郷の子分で能く知って居ります、

岡谷君
森時之助もあれも乱暴して東京中駆廻って歩いた様子、

市来君
あれは鹿児島士族になって居ります、前から手引を為した者で 彼此れ功労があるものであるからとて士族にしました、

鈴村君(譲)
其時は随分金銀は集ったでありませう、

市来君
御一新になりましたから、助かったので是れが铫子が違うと大賊であるのであります、

寺師君
治世ならば逃すべからざる賊で、乱世の際であるから切取り強盗も免したのでありませう、


解説
慶喜は暴発を避けるために、軍勢を大阪に入ってしまった。西觶たちによる主戦派のクーデターは成功したが、足並みは早くも乱れはじめていたのである。土佐藩は西觶の強引な手法には批判的で、朝廷から伏見の巡邏の命を下されたが、土佐藩広島藩は出兵を拒否した。さらに薩摩藩の主戦派主導による政変については、諸藩の間では批判がたいへん強かった。こうした批判を無視できなくなった。主戦派の岩倉も腰砕けになり、慶喜の新政府入りを容認するに至り、24日には慶喜の上洛が認められ、28日には慶喜の上洛後の議定就任が内定してした。三条も慶喜にたいして妥協的であった。このような状態の中で、薩摩藩の内部でも強行路線をひた走ってきた西觶らの主戦派への反発もあり、薩摩藩の体勢も公議政体論に傾いている。それが吉井書簡に現れている。長州藩の木戸も「御国(長州藩)の弊は尾大の形」だから挙兵倒幕には慎重な態度をとるべきだと述べている。もともと少数派であった主戦派の西觶らは、倒幕の密勅を作り、薩摩の藩論を倒幕に傾け、さらにクーデターも起こして新政府を作った。しかし、最初の方針も岩倉の腰砕けより、大政奉還派や革命内部からも倒幕反対の慎重派によって後退させられた。西觶と大久保は、岩倉に「戦いをいどみ、死中に活をうけるのが、いま、もっともだいじなことである」と述べている。大久利通も「このままでは、すべてのことがくずれ、大変革もことごとく水の泡となってしまう」となげいる。このまま進むと、天下の広義によって、倒幕推進派の西觶と大久保らは新政府から排除される窮地に陥ることになる。つまり、下級武士層にとっては、武力倒幕なしには、つまるところ体制派によって政権を維持されるだけであって、いつまでたっても下級武士のままである。だから、下級武士層にとっては、なにがなんでも倒幕派の軍と旧幕府の軍の勝敗に帰するところに、自分達の活を見出すのである。下級武士層は失うものは命だけです。

この手詰まりから武力討幕派を救ったのは西觶の謀略であった。西觶は、かねてから大政奉還で開戦の口実を失うと、江戸で戦争挑発の策動をはじめていた。西郷はさらに11月半ば頃、益満休之助と伊牟田尚平のふたりを江戸に送りこんだ。西觶が「伊牟田を連れて行け」と特別な支持があった。慶応3年12月23日、その伊牟田尚平が江戸城に放火した。この徳川家の江戸城に放火して炎上させる破壊工作と市中取締に対して薩摩浪士たちの攻撃により、薩摩屋敷で戦いが起こった。これにより薩摩藩の藩論も慎重論から倒幕に一気にまとまったのである。倒幕に反対していた薩摩藩士たちも、以後沈黙せざるを得なかった。西觶はこれを追い風に、鳥羽伏見の戦いに臨む。つまり、西觶はたんなる宮廷クーデターにとどまらず、倒幕戦争、すなわち内乱にまで突入させたのである。

「一体此間突然思起しましたが、右鹿児島邸に集りましたの は其際に及んで出来たので御坐りますが、其集りました同志の申合せは一朝一夕の事では無くして、年来相往来し、相計って居りましたところの結果が、右の一挙に及びましたのでござりまして、其重もなる同志者は権田直助、小島四郎と申しましたもので、小島は後に相楽総蔵と変名しまして、下の諫訪で落命しました、是は少し長くなります から別に御話申しませう、此小島四郎は文久年間より屢々上京しまして堂上方の諸家に往来して、始終謀る所がありました趣で御坐りました、其中にも高野山に事を起して人を集められました鷲尾卿には余程御懇命を受けましたものと見へて、袴杯を拝領したことがあったさうです(中略)さて小島四郎は京都に於て西郷氏に屢々逢ひ事を謀りまして——既に此間も申しました益满休之助、伊牟田尚平との二人が参りまして人を集めし前よりして、此江戸に人を集めます事を計画して居りましたのは此小島四郎の一人で御座りまして、是は予て承知して居た様子でございました。」(「史談会速記録」15)

 また落合の手記によれば、浪士集団の総監が相楽、副総監が落合だった。立てた策についても、落合は次のように述べている(「薩邸事件略記」)。
「一隊を甲州に、一隊を野州(下野(しもつけ)国)に、一隊を相州(相模国)に派遣し、四辺を擾乱(じょうらん)せしむとす、もし幕府歩兵を派遣するに及ばば、その虚に乗じ江城(江戸城)を屠(ほうむ)らむとの略なり」
 実際に、伊牟田らは甲斐国甲府城乗っ取りや下野国の出流山(いづるさん)(現・栃木県栃木市)での挙兵、相模国愛甲郡(現・神奈川県厚木市)の荻野山中陣屋の襲撃などを次々と実行に移したが、いずれも失敗した。だが放火による江戸城破壊は成功した。これらの事件は11月下旬から12月中旬にかけて実行されている。市来四郎によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など責任者は俗吏の者を除いて有志の者を嵌め込んでであり、浪士隊が充分活動できるようできるだけ力を尽くしたと述べている。