2015-05-01から1ヶ月間の記事一覧

小松帯刀

小松帯刀は、大政奉還の考えが将軍徳川慶喜によって表明されるとただちに賛同し、その早急な朝廷への奏聞を求めた。小松帯刀は慶応3年10月16日、西觶、大久保らと帰国する前日の15日、薩摩藩と縁家関係にあった近衛家当主の忠房を訪問し、 「差寄暴発之手…

イカルス号事件

イカルス号事件 海援隊士が良く利用し、事件の発端となった料亭・花月 イギリス人水兵殺害事件とも云い、当時はあまり大きな関心を持たれなかった事件だが、坂本龍馬や土佐藩が此の事件の処理に手間取り、結果的には土佐藩による大政奉還と云う大事業を、二…

慶喜と原市之進

suruya_fukuさん 2010/4/601:24:59(yahoo知恵袋) 一橋慶喜は将軍職を受ける前、原市之進を呼び寄せて相談しています。 「板倉・永井の両人には、先年の御養君の一件をもって辞とせしも、実を云わば、かかることはいずれにてもよし。ただ熟(つらつら)考う…

権田直助先生伝

権田直助先生伝 倒幕の実際運動 慶応三年十月十四日、将軍徳川慶喜は朝廷に大政を奉還した。慶喜の大政奉還は土佐藩の公議政体論を受け入れたもので、その後における政治的企図はもっていた。一方薩長は徹底的に幕府を壊滅すべく、挙兵討幕の密勅を盾として…

大久保利通文書

明治元年一月三日付 去る九日、朝廷大御変革御発表の形体を熟考するに、既に二大事を失はれ候て、皇国の事十に七八は成るべからずと歎息涕泣いたし候折柄、将に三大事を失せられんとす。三大事共に失はれ候へば、皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水泡画…

武力討幕派

武力討幕派が今を否定するのに急進的であったのは、自己の野望のために新たな権力を造出し、これを把握するためでもあった。西郷・大久保は徹頭徹尾武力討幕派であったから、同じ境遇の者らは彼らを支持したのである。彼らの身分は薩摩藩士であり、藩士にと…

武力討幕派

西郷隆盛・大久保利通、そして木戸孝允・広沢真臣、および岩倉具視、これらの人々は武力討幕の推進者であったわけだから、武力討幕派と呼ぶ。武力討幕論そのものは、尊王攘夷運動の激昂のなかに、真木保臣や平野国臣や吉村寅太郎や、そのような志士の言辞に…

アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 「一外交官の見た明治維新」 

将軍政治の没落 大政奉還から王政復古クーデター 1867年11月16日(慶応3年10月14日)将軍慶喜が大政奉還をしたと外国奉行石川河内守がパークスに告げた。すでに老中小笠原から今後政治は合議制になり天皇の裁可を受けることになると言われていた。勝海舟が内…

王政復古

王政復古の政変の時に、軍事発動があった。御所の内外を遮断するためである。くわえて武力討幕派は、軍事発動それ自体に意味をおいていた。岩下方平・西郷隆盛・大久保利通の三名が岩倉具視に宛てた意見書のなかで、次のように述べるようにである。これより…

江戸薩摩邸焼打 徳富猪一郎

爾來御壮昌奉賀候。當地意外之形勢に立至り、小子も先頃浪花より歸京、無事罷在候。乍憚御安意可被下候。右變態に付、君公早々御上京被爲在候様、朝命相下り、小松家(帯刀)、西、大(西郷・大久保)にも同敷歸國相成、來月中旬迄には、御上京可被爲在候に…

吉井友実、関山糺、伊地知正治

>西郷らが倒幕派なのはわかっている。しかし、その西郷も、大政奉還以後は武力行使一辺倒からの戦術転換をしている。 10月25日、薩摩藩京都駐在の吉井友実は急ぎ益満らに書簡を送り、関東での工作活動の停止を指示。 11月9日には、薩摩藩江戸藩邸留…

西郷 蓑田伝兵衛への書慶応三年十二月十一日

【蓑田伝兵衛への書】 慶応三年十二月十一日 尚々会桑引払い候へば、忽(たちまち)鎮火の模様に御座候。両日中には帰国の説御座候得共、いまだ慥成義(たしかなるぎ)相分からず御座候。 去る八日、容堂侯御出京相成候故、御発表の義も九日に相変わり候処、…

西郷の幕末の立場

>>西觶らは、日本人の尊皇の心を利用して徳川を倒して天下を握った。だから、日本国内では、内乱が10年間も続くのであった。以後国内の矛盾をそらすために海外派兵をしながら、国を纏めて行くのである。無用な戦争を行いながら、明治・大正・昭和の敗戦…

一月一日付簑田あて西郷書簡について

>江戸藩邸焼き討ちの件は、「昨夜、出羽秋田藩、高瀬権平、楠英三郎と申者、御留守居役方付役、遠武吉二方に申し出候は、両人之者共外に五人…田町御屋敷に潜匿いたし居り候處」(一月一日付簑田あて西郷書簡)という連中が、事件後脱走してもたらした情報だ…