吉井友実、関山糺、伊地知正治

>西郷らが倒幕派なのはわかっている。しかし、その西郷も、大政奉還以後は武力行使一辺倒からの戦術転換をしている。
 10月25日、薩摩藩京都駐在の吉井友実は急ぎ益満らに書簡を送り、関東での工作活動の停止を指示。
 11月9日には、薩摩藩江戸藩邸留守居役宛てにも「今日に至っては事を挙るに名義無之、…盟約之義士御邸内え被召置…」と書き送っている。


これらは、大政奉還で政局の主導権を奪い返すために、上方に軍事力を集中させることが必要となった。そこで、新たな薩長芸三藩の出兵を結ぶため西觶、大久保、小松の三者が不在中に薩摩京都藩邸内にあって中心的位置を占めた吉井友実、関山糺、伊地知正治らが旧徳川方(徳川慶喜側) との融和関係の樹立に熱心になり出していたからです。

こうした中、11月13日島津茂久と西觶は藩兵を率いて鹿児島を出発する。途中薩長芸三藩の出兵を取り決め、11月23日、茂久の一行が入洛する。そして、 翌々日の11月25日に茂久の面前で評議がなされ、その結果、改めて具体的なクーデター計画が樹てられる。薩摩藩兵らが京都御所を軍事的に制圧したあと、太政官を立て、ついで徳川家を諸侯の列に下し、会桑両藩の職を奪って帰 国を命じ、その代わりに長州藩兵の入洛を許すという計画であった。すなわち、12月9日に挙行されることになる クーデ夕—の原案がここに作成されたのである。つまり、「大政奉還以後は武力行使一辺倒からの戦術転換をしている。」のではなく、大政奉還以後、西觶らは武力行使一辺倒にのめり込んでいったのである。