江戸薩摩邸焼打 徳富猪一郎

爾來御壮昌奉賀候。當地意外之形勢に立至り、小子も先頃浪花より歸京、無事罷在候。乍憚御安意可被下候。右變態に付、君公早々御上京被爲在候様、朝命相下り、小松家(帯刀)、西、大(西郷・大久保)にも同敷歸國相成、來月中旬迄には、御上京可被爲在候に付、其節三士(小松、西郷、大久保)も御供にて上京可有之候に付、云々之事件、御見合可被成候。東西繰違にては、大に不宜。尤何事も諸侯會盟之上、朝議相居候節にも相成居申候。此旨伊地知正治申談、早々御懸合申上越候。以上。

 十月廿五日   
自京都
吉井幸輔

益滿休之介様
薗田正平様

吉井は小松,西�歐、大久保等が、藩論一定,藩主引出しの爲め諸藩中、京都に於けるその代理として斯く京都の形勢が急激に推移しつつあれば、其の見透しのつくまでは江戸に於て軽挙妄動するなからんことを誡告したるものだ。「云々之事件、御見合可被成候」とあれば、此の「云々之事件」に就き、予めじめ京邡と江との問に,少とも彼等同志の問には,何か中合せ'かあつたことは、言外に領収することが出来 る。

「再伸前文相記候處、唯今小笠原(彦一郎)別府(晋介)之兩士著京其血切迫之様子旁委曲致承知候嘸御失望候半ト相察候ヘトモ、君上御上京ニモ相成候機會、輕忽之義有之候テハ不都合之至ニ御坐候間、御同士中ニモ宜御執成被成度候、當分御邸内ニ潜居候方ニハ夫形ニテ可宜必今一左右何レ之筋可申越候、其内不目立様専要ニ候」

此れにて如何江戸の諸浪士等の今にも爆発せんとしつあったか、其の模様が能く判知る。その為小笠原、別府の両人は、使命を帯びて上京したるものと察せらるる。されば吉井が極力彼等の辛抱を誡告したるも、深く慮る所あった為めであろう。

[近世日本国民史66冊 徳富猪一郎 著 第五章 江戸薩摩邸焼打 P116~117]