2008-01-01から1年間の記事一覧

シソガポールの華僑の虐殺

シソガポール市の人口は七十五パーセソトが華僑だと言われており、大部分は気持ちょく日本軍を迎えて協力してくれたが、中には少数ながら共産系のテロ団が混っていた。それで、マレー半島進撃中には全く無かった日本軍へのテロが、シンガポールが陥落したと…

個人の体験談とは

個人の体験談とは、それを語る個人の体験に基づいています。しかし、空間と時間が共通なところで起こった事件についても、それを語る人が、どういう生涯を送ってきたかによって、まったく違った認識を持つのはあたりまえで、こうした食い違いは、われわれの…

三・一独立運動

独立運動の集団は北鎮の天道教会は鎮洞の南端セッケンマルの北鎮公立普通学校裏から出発した。 「大正八年三月一日を期して全鮮一斉に独立運動に獣起するはずだったのが、何かの都合で四月中旬になった。その日は朝、雨が降り下校時には晴れた。私の家はセッ…

いわゆる21ヶ条条約要求のための最後通牒の内容

いわゆる21ヶ条条約要求のための最後通牒の内容帝国政府は五月六日付を以て日置公使に対し最後通牒を支那政府に交付すべきことを訓電したり最後通牒は未だ発表せざるに拠り其の内容を詳かにすることを得ざるも其大要は時局の紛糾を避けんが為隣邦支那政府の…

ロンマリの子供たち

日本の非望

(2008/11/01 01:35 共同通信) 防衛省の田母神俊雄航空幕僚長(60)が、過去の中国侵略や朝鮮半島の植民地支配を正当化して「わが国が侵略国家だったなどというのはまさにぬれぎぬ」と主張し、政府の憲法解釈で禁止されている集団的自衛権行使や「攻撃的…

日本大悲劇の種蒔き

明治三十三年、当時の清国に義和団の暴動が起こった。日本およびイギリス・フランス等の列国は連合軍を組織してこれを鎮定した。この時、列国の中には支那分割を画策する有力な一派があった。日本ではこれに対抗して支那の領土保全・主権尊重を主張する近衛…

太平洋戦争持の日本の事情

シナ事変と大東亜戦争であるが、2.26事件であわよくば政権を獲得せんとしたが成功せず、次第に軍への不平もたかまってきたので、そのボロかくしに国内の関心を外に向けようと企てた大バクチがシナ事変である。さらにその上塗りが大東亜戦争である。こんな不…

二十一ヵ条条約

「対支二十一ヵ条の要求」は正式な名称ではなく、通称「対支21か条の要求」と言われるもので、1914年12月3日、対華要求条件十四ヵ条と希望条項七ヵ条併せて二十一ヵ条の条約案で、この条約の締結を迫った日本が最後通牒を突きつけ大正4年5月9日に受託した…

林房雄の戦争責任論

「天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。・・・日清・日露・日支戦争を含む東亜百年戦争を、明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて…

天皇の戦争責任

我が国民が天皇の戦争責任を追及したがらないのは、天皇は名前を利用されただけで真の責任者ではないと思っているからだと思う。ところが天皇は国家最高の人事、国政の基本方針の決定において、いかに主体的判断、選択を行ったか、天皇はけっして政府・軍部…

甲申政変の真相

昨年2月22日の騒乱の詳細は、わが国でもある程度まで知られているので、それをここで詳述する必要はない。しかし、この騒乱の内幕は、日本公使トカツァイオ(竹添)の陰謀なのである。 日本は、思いがけぬ中国軍のソウル到来とともに戦術を転換したものの、…

ジェネラル・シャーマン号事件2

彼らは今日まで意図的に外国人とりわけヨーロッパ人との関係を回避してきたこと、またヨーロッパ人との関係から生じ得べきことについて判断するために、彼らは中国を凝視してきたことを率直に認めている。そして実際に、一九世紀にとって恥ずべき一八四〇年…

李朝末期の腐敗悲惨の実情

李朝末期の腐敗悲惨の実情 ごく初期のころ朝鮮に居住していたある外国人が、私に、つぎのように語ったことがある。「私が最初朝鮮に行ったとき、私はあたかも、現世からほんとうのアリスの不思議な国に来たような錯覚を覚えた。すべてがたいへん幻想的であり…

明治維新の農業政策

明治になって、百姓は女の子を間引きするかわりに、それを娘にそだてて売ることになった。日本の近代はこの人身売買を公然のものにしたのである。近代の企業は維新政府と一体化して、商品の過剰生産の悩みを最大の矛盾として内部に包みながら、一方農村の過…

間引き

私のじいさんが語りよりましたが、いま市の採石場になっとる所が、兎山というて浜村の株場1草切り場だったそうです。明治になって政府が、一人一人に割ってくれたそうですたい。それでみんな開墾してカライモを一年か二年か作りましたところが、税金をかけた…

明治維新と農民

明治維新は、廃薄置県をおこない、大名武士が土地を支配することをやめさせ、士族の軍事独占もやめさせた。そうして不十分ながら身分制を整理し、国民の職等の自由、移住の自由などをみとめてきた。明治五年には、庶民の土所有権をみとめ、したがってその売…

ジェネラル・シャーマン号事件のその後

ジェネラル・シャーマン号焼失のニュースが上海に伝わるや、その地のアメリカ提督は、ワチュセット号の艦長シューフェルトに対して、朝鮮におもむいて賠償を取ってくるように命じた。シューフェルトは、朝鮮の海岸線の測量を行なっていなかったので、まちか…

丙寅洋擾とジェネラル・シャーマン号事件

丙寅洋擾とジェネラル・シャーマン号事件 十八世紀のすぐれた地理学者デュ・アルドは、朝鮮の人々について次のように書いている。「彼らは、一般的には品行ただしく、謙虚でかつ温和な性向をそなえており、漢文を解し、学問を愛し、そして音楽と舞踊を楽しむ…

農家呼吸の余地あるを見るべし

明治維新後、紡績業・製糸業などを中心とした日本資本主義のめざましい発展にくらべて、日本農業は、地租改正によって決定づけられた寄生地主側=半封建的生産関係の枠のなかに押しこめられていった。日清戦争後明治32年において全国農家の三分の二は純小作…

日本振農策

「昔日に在りては便益なりし農業上の諸制度も、開港以来全く反対の景況を呈し、今日に及びては、却て多数人民を抑圧し、諸般の真正なる進歩を妨ぐるに至れり。又、他の一方に於ては、臣民の自由、真正なる財産所有権、貨幣経済等新に許多(あまた)の社会的…

壬午軍乱の直接の発端

朝鮮開国以来、朝鮮との貿易において主な輸出商品は綿布であり、朝鮮の伝統的な棉作および手織業が衰退する反面、朝鮮で買い集めて輸入するものは主として米、大豆などの倉糧であった。そして朝鮮国内には食糧危機をまきおこし、穀価は江華島条約以来三〜四…

日本の近代化とは

工業国じゃない日本のような農業国が開国すると、欧米の諸商品が流入によって、金か第一次生産物の輸出にもっぱら依存しなければならない。薩長政府が自己政権を強化するには軍備強化が必要とした。そのためには造船、鉄鋼、交通、伝達手段に力を入れること…

明治初年に試みられた米穀輸出

統計上米の輸出は明治五年までは載っておりませんが、明治初年に海外輸出の試みついての形態が青森県徴士として大蔵省に出仕し、貢米の処理に当った飯田巽の手記で次のように述べられている。「是より先(明治五年)井上大蔵大輔計画して廃藩引継の米穀を在…

日本郵船会社の誕生の裏話

薩長政府は、運送、鉄道、鉱山、工場などを運営するが、経営上赤字状態のものが多かった。そこで運送について詳しく述べてみると、維新政権は1870年に洋式船舶による海運業の廻遺会社を起すが、経営不振のため解散して、1871年1月にはその船舶および業務一切…

石川啄木と日清戦争

石川啄木は日清戦争当時の様子を回顧してつぎのように述べている。 「日清戦役の時は、我々一般国民はまだほんの子供に過ぎなかった。反省の力も批評の力もなく、自分等の国家の境遇、立場さえ知らぬものが多かった。無論自分等自身の国民としての自覚などを…

明治と農民一揆2

参考明治六年の地租改正の金納和現制度について大蔵省事務総裁として地租改正にあたった大隈重信の回顧録です。 地租改正後、ナカナカ地方がやかましくて、質は政府の命介に服従せぬ。その時に役人を方々へ出して、我慢せよ五年後にはドゥかしてやるから……と…

日清戦争の結果

1879年の金本位制はこの賠償金の運用によってなされたが、当時の実業界では対清輸出上不利であるという反対論が強かった。それにかかわらず、金本位制を採用したのは、戦後経営が軍艦、兵器、鉄鋼、機械などの欧米からの輸入を必要とし、それには金本位制が…

明治と農民一揆

1868年6月22日に当分の間米穀の輸出禁止を宣言された。この年長野県佐久郡、鳥取県隠岐島、滋賀県蒲生郡に農民放棄する。1869年、農民の世直し運動盛んに行われ、新潟県信濃川流域400カ村・岐阜県土岐・郡上の2郡、島根県神門郡杵築越峠村、富山県下新川郡…

11月12日付 竹添進一郎の報告書

11月12日付の竹添進一郎が伊藤参議と井上参議に宛てた報告書第四号 筆記第一筆記第二ハ小官赴任即下朝鮮之景況ヲ見ルへキ者二俣当春大院君帰国之風説有之国王初メ一統狼狽ヲ極メ候以来支那党ハ在韓之支那武官ニ媚ヲ献シ殆ト奴隷同様ノ醜態ヲ極メ内テ向テハ支…