ジェネラル・シャーマン号事件のその後

ジェネラル・シャーマン号焼失のニュースが上海に伝わるや、その地のアメリカ提督は、ワチュセット号の艦長シューフェルトに対して、朝鮮におもむいて賠償を取ってくるように命じた。シューフェルトは、朝鮮の海岸線の測量を行なっていなかったので、まちかがえてソウルへの進路にあたる漢江入口から三十マイルほど北にある小さな湾に投錨した。やや後になって彼自身が行なった説明のなかで、彼は次のように述べている。

「この地点で、私は、朝鮮国王に宛てて信書を書いて、シャーマン号の破壊と船員虐殺の理由を問うとともに、以前アメリカ船が難破したときには、朝鮮国王が、その船員たちをあらゆる努力と十分な注意のもとに、中国との国境まで送りとどけ、船員たちはそこから安全に自分たちの故国に帰還したことのある事実を知っている自分としては、とくに、このたびの行動の野蛮性に対して驚いている旨を表明した。数日間てまどったのち、われわれは村の役人にあって、その信書をその地方の長官(観察使・監司とも言う)に送りさらに朝鮮の首都まで転送してもらうよう頼むことに成功した」
「特使が急派されてから十日ないし十五日間投錨地に滞留したのち、われわれは艦がしだいに凍結しはじめたことに気づき、このままでは来春にならなければ出航できないようになるかも知れないということが憂慮された。そしてその頃までには、われわれの食糧も尽きてしまうはずなので、私は、信書の回答をそれ以上待つことなく、つぎの季節にふたたび食糧を準備して再来することを期して、撤退することを決心したのであった」

このような成り行きからシューフェルト艦長の所期の目的の遂行は妨げられたが、しかし、その後彼の信書に対する朝鮮政府からの詳細な回答があり、アメリカ国民はジェネラルシャーマン号への攻撃は、アメリカ船側のはげしい挑発のもとで行なわれたものと確信するに至った。だがしかし、一八七一年、北京駐在アメリカ公使ロウは、ロジャーズ提督に対し、プレストソ船長の死に対する報復として、朝鮮に侵攻して漠江河口の砦を攻撃すべきことを指示した。この企てもフランスのそれより以上の栄光あるものにはならなかった。アメリカ人たちは、すぐれた武器によって、多数の朝鮮人を殺害することはできた。だが朝鮮人たちは、侵入者たち自身が認めているように、じつに勇厳に闘った。侵入者たちは、無意義で不必要な破壊をくり返したのち退卸したのである。