>ないですな。日本統治前の朝鮮半島には産業どころか貨幣経済すら一般化しておりませんけど。

朝鮮の財政展望は前途が明るい。1895年末、国王は財政顧問という割りの悪いポストに就くよう税関長マクレヴィ・ブラウン氏を説得し、数カ月後には国庫からの支払いはすべて財政顧問の承認を必要とするという勅令を発してブラウン氏の職権を強固にした。公金を横領するための技巧や策略にかけては、朝鮮人はことのほか創意と才能を発揮し、朝鮮の官僚の不正行為ほど根絶しにくいものはない。ゆえに外国人顧問が悪行のひとつを阻んだとたん、べつの不時な行為が発覚したとしてもおかしくはないし、また賢明な判断をもって節約が行われたおかげで「役得」を取り上げられた無用のぐうたら官吏や、戦々恐々としている何千人もの不正蓄財者が、東洋式悪知恵を総動員して財政改革に反対したとしてもふしぎはない。
 しかしながら、ひとりの西洋人の名誉と能力をかけた闘争は実を結び、朝鮮の財政は徐々に健全な基盤を築きつつある。管理に細心の注意を払い、支出をきめ細かに削減し、秩序立った会計システムを導入して国庫の混沌状態を極力解消し、地租の徴収方法を変えて国庫にまずまずながらも規則正しく入るようにした結果、1896年は財政均衡を得てそれを守りつつ相当な黒字を残して暮れた。そして1897年四月には日本からの借款三〇〇万ドルのうち一〇〇万ドルを返済し、残りの負債はどの角度から考えても1899年度の収益から返せるめどがついている。いよいよ朝鮮は負債ゼロどころか黒字国という誇らしい立場に着けるのである!
1896年の順調な財政収支は例外的な支出を一部行っているだけに、なおさら注目に値する。軍隊が新しく二個連隊補強され、費用ばかりかかる無用のおもちゃだった旧式の兵器庫がロシア人人機械技師の監督のもとに必要ないっさいの改良を加えて生まれかわった。また慶運営が建築され、近々行われる亡皇妃の国葬に関連した儀式や工事の費用が支払われ、ソウル西部が広域にわたって再開発された。政府に雇用された民間人(きわめて多い)、兵士、警察官は毎月きちんと俸給受け、閑職はほんのわずかずつながらもなくなりつつある。
便利で美しい朝鮮の銀貨、白銅貨、赤銅貨が一般に出まわはじめて穴あき銭を駆逐にするにつれ、交易はこれまでの障害の少なくともひとつから解放されつつある。また銀行施設の増加にも同じことが言える。(イザベラ・バードの朝鮮旅行記、P500〜501)

わずかばかりの畑に植えた麦でさえ成熟するまでにまちきれずに、まだ実もかたまらない乳熟期に刈取って精白し、さらにこれを粉にして粥を作ってすすっている有様だ。それでもまだ麦ができるようになれば多少とも潤うけれども、四、五月のいわゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎ、アカシヤの花をとってやっと生命をつないでいる。だからだれもが弾力なくふくれあがって栄養不良となり、むさ苦しいオンドルで水ばかり飲んで寝ころんでいる。ある農業指導員から「農民はもっとも多忙な田植のときさえ栗飯でも二度三度戴いているものはほんのわずかでしょう」ときかされておどろいた。(1933年6月12日付)。

上記は大阪毎日新聞社の記者よる、朝鮮の春窮農民の惨状についてものです。

解説

1930年の統計によれば、春窮農民が全農家戸数の48.3%で125万3000戸に達している。春窮農民とは「麦嶺難越」というが、飯米が切れた農家が、麦の穂に実が入るまでの「麦嶺期」を越えるのはむずかしいということである。

産米増殖計画などによって、たとえば1921年の生産高が1,100万石であったのにたいし、1928年には1,700万石に増大して約600万石が増えておるが、日本への米穀移出が、毎年増え続け、1928年には740万石になっておる。つまり朝鮮では産米増殖計画などによって生産が増えた以上の米を日本へ移出しておった。さらに人口が増えておる分を考えれば、朝鮮人の口にする米は少なくなる。実際に朝鮮人の一人当りの年間平均米穀消費量は1912年の7斗7升5合から1928年には5斗4升さらに1930年には4斗5升に減少している。

日本が外地である朝鮮で莫大な国家資本をつぎ込んで農業開発をやったのは、日本人の食料問題の解決のためにしたのであって、朝鮮人のためにしたものじゃない。

当時の『群山案内』には、「廉価なる穀類の多額を輸入して、高価なる産米の輸移出を増進せるは、大にしては此地方に於ける経済事情の一進歩」と評価しているように、朝鮮からおいしい米を日本へ輸出し、代わりにまずい外米と栗を輸入して食卓に載せざるを得なくなっていたのです。この状態を猪原とし子は、「朝鮮人はむしろ米食よりこの方〔雑穀〕を好む」からだと言い放っておるし、当時、『朝日新聞』の記者であった中野正剛は、「自給して余あるに因るに非ずして、貧困なる鮮人が補充食物を取りて、産米を剰し、之を市場に出すに因れり」というておるように、産米増殖計画以後、朝鮮農民の困苦がひどくなってる。

「就中、最も窮乏を訴へつつある現下の農村に付て之を見ますならば、其の約八割は小作階級に属する細農を以て占めて居ります。此等は過去多年の秕政の結果、搾取誅求に苦しめられて来たのでありまして、既に其の心境は著しく荒み、所謂酔生夢死、奮発心も、感激性も銷磨し、希望も理想も意気もなく、其の日暮しの悪習に堕し、自ら意識して、其の生活に改善工夫すると謂ふやうなこともなく、全く時代遅れの環境に甘んじ、年々歳々食糧の不足を訴へ、高利の負債は逐年増加するのみならず、収穫時期には債鬼殺到して、彼等全年の努力も、或いは借入食糧の返済となり、或いは負債利子の償還に充て、餘す所なく春窮即ち端境期に於ては、食糧不足し、山野に草根木皮を漁り、辛うじて一家の糊口を凌ぐが如き、惨目なる状態であって、此等は年の豊凶に依り、素より一様ではありませんが、其の概数は農家総戸数の四割八分約百二十万戸に及ぶ年も在つたのであります。換言すれば、朝鮮の農民中には、過去に追われ、現在に苦みて、将来を楽むなどは、思ひも及ばざるものが多いと申さねばならぬ。
此の多数の恵まれざる農民の存在は、正しく朝鮮統治の一大憂患であつて、其の生活と向上とを放任しては、朝鮮の開発は、断じて望み得ないのでありまして、之が対策は統治上、最先最急の要諦であり、且其の根幹を為すものと信ずるのであります。」と宇垣総督が言うておるが。

春窮農民は、朝鮮農村において日本支配の全期間をつうじて毎年繰り返された恒常的な現象であったのです。たとえば朝鮮総督府の御用言論機関である京城日報社編の「朝鮮年鑑」1940年版も、その惨状についてつぎのように書いておる。

農家、特に小作農の中には、秋の収穫期に小作料と借用食糧および債務利子を支払えば、あとには稲を脱穀した台と籾を入れていたパガジ(一種のひさご)しか残らないという、惨澹たる状態にあるものも少なくない……。自ら食糧を生産しながら、自身はこれを食べることができず、端境期になると、もっぱら草根木皮で生命をながらえることが多い。

1900年から1910年までイギリスの「ロンドン・デイリィ・メイル紙の記者で特派員として韓国を訪問したマッケンジーはイザベラがいうておる朝鮮1890年代後半について次のように述べている。

 今や、多数の外国人がこの国で仕事に従事するようになっていた。イギリス・アメリカをはじめ、ヨーロッパ大陸の資本家たちが、鉱山採掘権を獲得した。積極的なアメリカ人商社コルブラン・アンド・ポストウィック社がソウルに設立され、いくつかの大きな事業に着手した。そこには、たしかに、前進的な多くの徴候がみられた。新たに数多くの学校が発足し、国立病院も設立された。外国駐在の韓国外交官に対する俸給の支払いの滞ることもあるにはあったが、韓国の外交関係は、一時は、多数の強大国との間に維持されていた。ソウルに電燈がつき、電車路線も敷設された。警察官は新式制服をまとい、軍隊も新式兵器の供給をうけて近代式戦闘訓練をうけるようになった。さらに韓国は万国郵便連盟に加盟し、主として日本の統制下にはあったが、電信も秩序正しく活動しはじめた。ソウルそれ自身も、今では、その旧態から多くの面で脱皮してきていた。周囲の山やまで合図ののろしを上げることはやめられていたし、日没後の門の閉鎖も行なわれなくなった。首都ソウルには大きな洋式の公共建築が立ち並び、いくつかの韓国新聞がはなはなしく活動し、キリスト教は各地で、とくに北部地方で、しだいに大きく前進をとげており、国民生活に著しい影響を与えていた。平壌や宣川などの都邑は、現代キリスト教宣教史上にもその類例をみないほどの、顕著な活動の中心地となっていた。(朝鮮の悲劇P95〜P96)