併合条約


朝鮮における立法権は勅令・緊急勅令を発する天皇にあることはいうまでもないが、立法事項に関して「併合処理方案」中の「立法事項二関スル緊急勅令案」が「朝鮮ニ施行スベキ法令二関スル件」として、「併合条約」と同時に発表されます。これによると朝鮮における法令は、朝鮮人民の意思如何を問わないのはもちろん日本議会の協賛を経ることなく、勅裁による朝鮮総督の命令をもって代えると規定され、総督府官制の規定とともに総督は朝鮮における立法・司法・行政の三権を一手に把握し、朝鮮人にたいする生殺与奪の権限を行使していました。


日韓併合以前の日本の総監を置いた時代に日本政府が出資した東拓という国策会社を作ります。東拓は貧乏していた朝鮮の農民から、土地を買いあさり、ただ同然に安く手に入れ土地を買い占めてしまいます。それに日韓併合により土地調査事業では、国有地に編入してまったり、新しい税制では農民は税金を現金で納めなくてはならなくなって、貧乏して金に困っている農民の土地とか、部落の共有地などをどんどん買い集め、豊かな平野部のほとんど東拓の農地になってしまい朝鮮人はその下で小作人となって働くことになります。
そうして朝鮮農民から手に入れた土地を、日本から押し寄せてきた食いはぐれの日本の移民に、政府の政策として安く譲ったからたちまち日本人の大地主が生まれたのです。日本の大地主は春に肥料代とか現金を貸し、収穫後に小作料と肥料代、モミ代、貸し付金の高利の利子を取られ、生活が苦しいので小作人は借金で生きて行くようになったのです。もし自分の山とか畑があると取り上げられるし、住んでいる家も没収して競売してしまうので、農民が土地を失うのは早い。あっという間に農民の財産は失ってしまったのです。
土地を失った農民は飢えて死ぬか、他郷へ流れて行くかしか方法はなくなり、日本の内地に行けば飯が食えると聞けば行く、満州に広い土地があると聞けば行く、流民とならざるをえなかった。
寺内正毅は1910年の日韓併合の後、1916年まで朝鮮総督を務めた方で、下記のように「領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」とポロポロ涙をこぼして訴えられています。当時の朝鮮総督でさえ日本が領土を侵略していたという意識がありあり込められた涙であろうと思う。
日本人の支配する中で朝鮮人は、人間としての待遇を受けてはいなかったし、朝鮮人は日本の奴隷と同じであった。

参考
「対支二十一ヵ条の条約が締結された時わたしはまだ朝鮮にいた。ついに侵略の牙をむいた日本に対する支那人の憤激、日本人に対する憎悪、それによってまき起こった排日・排日貨の旋風は、京城あたりでも感知された。寺内総督はわたしに朝鮮に手近い地方の実状を見て来てくれとのことなので、わたしは支那へ潜行した。長春奉天で、日本製の帽子を地に投げつけたり踏みにじったりして、排日救国を怒号している、支那人の眼は、日本人に対する憎恵に燃えていた。帰って寺内さんに報告すると寺内さんは、
 「困ったことだ。とり返しのつかんことをやってしまった。この調子で進んだら、日本と支那はヨーロッパにおけるドイツとフランス以上の、永遠の敵となってしまう」
といってひどく心配された。何とかしなくてはならんと話し合って見てもどうするわけにも行かぬ。そうこうしているうちに、支那に対する問題は袁世凱帝制の場面に転回した。日本が帝制延期の勧告をしたのが大正四年十月二十八日で、この頃わたしは朝鮮引揚を決心、内々帰国の準備にとりかかっていた。
そしてわたしがいよいよ朝鮮を引揚げる翌五竺月までの間に、この間題は大体次のような経過をたどる。
大正四年 十月二十八日帝制延期勧告
大正四年十一月  一日勧告拒絶
大正四年十一月  五日帝制延期再度勧告
大正四年十二月  五日陳其英軍上海機器局占領
大正四年十二月 十二日衷世凱皇帝即位承認
大正四年十二月 十五日日本最後的勧告を発す
この間にわたしたちは、日本が支那に対して何かしら大変なことをたくらんでいるな、ということを感知した。ある日青森連隊長をしていた土井市之進という陸軍大佐が、朝鮮を通り抜けて支那へ行った。土井大佐は寺内さんとは親戚の仲である。それが京城を通りながら、寺内さんに挨拶もせずに行ってしまった。坂西大佐からこのことを聞いた寺内さんは、
「あいつら何かたいへんなことをやりおる」
といわれた。
日本が袁世凱の帝制を阻止した口実は国内に動乱が起こるということにあった。支那は動乱は起こらぬといった。事実支那側のいう通り何事もなかった。支那人は共和政治を好まぬ。ことに官吏・上層階級は帝制に深いあこがれを持っていた。袁の声望も盛んなもので、当然反対である南方革命派も手の出しようがなかった。起こらないのが当然なのである。それでは筋書通りに運ばない。そこで日本から行って騒動を起こさせたのである。いや、むしろ日本自身が起こしたという方が当たっているであろう。
土井大佐などはこの火付役の発頭人で、馬賊の大将パプチャブを引張り出しに行ったのである。朝鮮からはまさに対岸の火災で、この大火付の有様が手に取るごとく分かるのである。最初に起こった暴動は陳其芙軍の上海機器局占領である。これにはこういういきさつがあったのだ。
 日本は支那攪乱の手始めに、この陳其美に、上海にいる支那の軍艦を革命派の手に買いとらせるという約束で、たしか三百万円の金を陳其美に渡した。その軍艦は呉淞で受取るという約束になっていた。そこで海軍の予備軍人を大勢駆り集めて舞鶴から船を出した。その船が呉樅に行って見ると問題の軍艦が港から出て来た。こちらへ来るのかと思うと、さっさと針路を東北に転じて逃げてしまった。受取りに行った連中は納まらず、その腹癒せに呉淞に残っていた駆逐艦を分捕ろうとして襲撃したが失敗し、全部捕虜になってしまった。軍艦買収に失敗した陳は、兵を起こして機器局占領をやったりしたが、まもなく日本人の手で殺された。これはわたしが見たわけでもなく、調べたわけでもないからくわしいことは知らないけれど、あったことなのだ。
ある時寺内さんはポロポロ涙をこぼして、
 「大隈内閣のやることは一々東洋永遠の平和の打ちこわしだ。東洋平和を御軫念あらせられた先帝に対し、まことに申しわけがない。領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」
といって嘆かれた。
このただならぬ風雲をよそにして、わたしは大正五年一月十六日、朝鮮を去り、内地へ引きあげて故山に帰臥し、二月には前記の銀行つぶしで上京し、それを果たしてふたたび郷里に帰った。よそ目にはいかにも閑日月を楽しんでいるように見えたであろうが、わたしの心は常に大陸の空に馳せて、事態の推移をじっと見守っていた。(西原亀三自伝)