最後の殿様

「最後の殿様―徳川義親自伝」より

 十一月に、貴族院では慰問団を北支と上海方面に派遣することになった。ぼくは尾張の人が多く出征しているので、志願して慰問団にいれてもらった。すると年少のぼくに団長になれという。考えてみると侯爵はぼくだけで、団員は伯爵樺山愛輔、子爵井上勝純、子爵三島通陽、男爵岡義寿。

(中略)

 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかというようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。

 藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

 中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。

 長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、

「長、その話だけはだれにもするなよ」

と厳重に口どめしたという。

(「最後の殿様」P170~P173)