南京虐殺

南京と通州の悲劇
昭和十三年四月の初めであつた。
当時私は朝鮮羅南の山砲二五の連隊長をして居た。ある日三月の異動で、成興の歩兵七四の連隊長となった長勇大佐が私を訪ねてきた。師団司令部で行われる恒例の団隊長会議に列席するために羅南に来たからである。
長氏は嘗て参謀本部で同一の課に勤務したことがある、熟知の間柄である。氏は三月事件や十月事件の事実上中心人物であり、無類の乱暴者だとの異名が高かつた。その性格は外面の豪放なるに似ず、世上の毀誉に極めて敏感な頗る功名心の強い反面があつた。その最大の欠点は正邪を問はず苟くも自己が是と信じたことは如何なる悪辣なる手段を以てするも貫き通そうとする反省なき実行家であつた。
氏は私に対しては一歩を譲って居た。それは氏が若き日に女色に溺れ私に救はれたことがあつたのと、私が腕力に於てはるかに氏に勝って居たことがその主なる理由である。故に氏は私に対してはあまり氏独得の大言壮語は敢てしなかつた。
団隊長会議は三日間に亙って行はれた。此間氏は私の官舎に宿泊し、私は彼と起居を共にした。私はこの間驚くべき事実を彼の口から聞いたのである。それは世界を驚倒せしめた南京附近に於ける中国人大量虐殺の真相である。
彼は或る日私に語った。曰く
「南京攻略のときには自分は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であつた。上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り、鎮江附近に進出すると、抗洲湾に上陸した柳川兵団の神速な進出に依って退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた。この多数の捕虜を如何に取り扱ふべきやは食糧の関係で、一番重大な問題となつた。
自分は事変当初通州に於て行はれた日本人虐殺に対する報復の時機が来たと喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電信に依り伝達した。
命令の原文は直ちに焼却した。
この命令の結果、大量の虐殺が行はれた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言ふ訳にはいかなかつた。
自分は之に依って通州の残虐に報復し得たのみならず、犠牲となつた無辜の霊を慰め得たと信ずる」
と。私は始め自分の耳を疑つた。そしてこの長氏の言葉を長氏一流の大言壮語と見てこれを信じないことにした。
終戦後私は種々な関係から、南京周辺に於ける日本軍の残虐行為の全貌を知ることを得た。そして如何にしてかかる大量の虐殺が行はれたかを検討して見た。その結論として私は嘗て朝鮮羅南に於ける長氏の言の真実なることを肯定せざるを得なかつた。
以上は田中隆吉元陸軍少将が述べているもので、30万近くの人々が犠牲になったと思う。

これを証明する証言

松井大将の専属副官だった角良春少佐で、『偕行』シリーズ(14)(昭和六十年三月号)で大要次のように証言している。
「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話があった。
『下関に支部人約十二、三万人居るがどうしますか』
情報課長、長中佐は極めて簡単に『ヤッチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。
ところが約一時間ぐらい経って再び問い合せがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。
とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。
命令が出てなかったらこっちはしませんよ。
角良晴少佐証言


(「最後の殿様」P170〜P173)
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでい る。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれ こんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、
「人を殺すのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田く んにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。