王妃惨殺事件

1894年、日清戦争が勃発し、その開戦まえ、日本人はなんの理由もなしに中国の貨物船を撃沈させ、乗っていた1200名を無残にも殺傷するという蛮行をはたらいた。その後、あのむごたらしい旅順港の大虐殺がりひろげられたのだ。日本の蛮行はこれにとどまらなかった。
1895年10月8日午前四時過ぎ、日本人壮士たちは、宮殿の庭に押し入り、戸をこわして王妃の部屋に侵入した。宮内大臣李耕稙は彼らを阻止しようとしたが、たちどころに殺害された。彼らは、ふるえながら逃げまわる官女たちをつかまえ、頭髪をつかんで振りまわし、殴打して、王妃の所在を言えと強要した。彼女らは、うめき泣きながら、自分たちは知らないと言いはった。しかし、哀れなる王妃の神経がもはや耐え切れなくなって廊下へ逃げだすと、脱兎のごとくその後を追い、王妃を捕まえるや床に投げ出して、彼女の胸に足を載せて三回はど踏みつけたあげく、めった切りにし、殺害した。それでも足らぬとばかりに、王妃を近くの林へ運び出し、死体に揮発油をかけて焼いてしまった。
1895年の流血劇は、こうして幕を閉じた。恥じ知らずという点では、歴史上に前例のない出来事が起きたのである。異国の人々が平時に、かの国の軍隊の庇護下に、はたまたその指揮下に、そして、一国の外交公使さえも関与の上で王宮内へ大挙して乱入し、王妃を殺害して、その遺骸を焼き払い、卑劣なる殺人や暴行の限りを尽くしたあげくの果てには、この上なく恥じ知らずな遣り口で、衆目の注視する中で遂行された事例が、かつてあったであろうか。この事件は日本の三浦公使の命をうけた在ソウルの日本守備隊・日本人官吏・巡査、それに岡本柳之助ら数十名が起こしたものだ。「是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナッタ。モウ安心ダ」と三浦梧楼領事が語ったと京城駐在一等領事内田定槌が証言している。
いくらナショナリズムの19世紀といえど、日本政府を代表する公使が直接計画し、指揮して起こしたものだが、当時の意識の文明度が分かる。かって、占領下の日本に連合国軍最高司令官として君臨したマッカーサー元帥は、米国に帰ってすぐ、日本人のことを「12歳の少年のよう」と語って、日本国民を憤慨させたことがあったが、冷静に考えて見てば、マッカーサー元帥が言うたことは真実かも知れん。