王妃殺害事件に関する件

王妃殺害事件に関する件

小村公使ヨリ西園寺外務大臣臨時代理宛
電信明治28年10月17日午後4時44発、9時20分着

「今回ノ事件ニ付テハ官民共に頗る関係者多シテ、其事実ヲ得ルコト最モ難シ然レトモ今日迄ノ取調ニヨリ本官ノ確実ト認ムルモノ左ノ通リ即チ此事件ノ使嗾者ハ三浦公使ニテ大院君ト同公使ヲ周旋シタルハ岡本柳之助ト察セラレル而シテ公使館領事職員中ノ関係者ハ杉村書記官堀口領事館補国文通譯官萩原警部及巡査6名ナリ王妃ハ日本人ノ手ニテ殺害ソ其死屍ヲ焼キラリ此節大ニ盡力シラル領事巡査ナリ守備隊ハ全ク三浦公使ノ命令ヲ奉シテ進退シラルモノト認ム守備隊武官ノ関係者ニ付テハ田村中佐ヨリ陸軍大臣ヘ報告セラルヘシ」

この事件では押収した物的証拠もあったし、密偵からの事件の詳細や本人らの証言もあったんだ!


ただ、日本はこの事件を「証拠不十分」として、終わらせたのは、政府として一時は刑事問題として処理しようとしたが、結局は政事問題して処理することにしたからだよ!

思うに、この事件を政府としては、厳正に事実を調査して、これを国法に問い、日本政府が関係していないことを明らかにして、列強の誤解を釈明することが最善な道だった思う。

以後、出先機関が中央の方針を無視して独断専行が許される素地を作ったことにより、関東軍による、満州の元首、張作霖を策謀したり、4年後のやはり独断専行の満州事変を起こしても、取り締まることができなくしてまったようだ。と言っても、独断専行は明治初頭いらいの、明治維新政府の伝統の観がある。