三国機関

ナチス独逸にはゲシュタポがあった。ソ連にはゲー・ペー・ウーがある。何れも秘密の国家警察機関である。この秘密警察は一国一党の独裁政治形態を有する国家にとっては必要とする。
第二次近衛内閣から東條内閣に到る間は、軍部の力が絶頂に在った頃である。日本の一切の政治は陸軍の指導下に一国一党の姿に於て運営せられて居た。故にわが陸軍も御多分に洩れず、極秘裡に、秘密警察組織をもって居た。その名は三国機関である。
この秘密機関の創設は、板垣陸軍大臣時代の末期昭和十四年の四月である。創設当初はゲシュタポ的の性質を帯びたものではなかつた。その目的はスパイの防止を主とした単純な防諜機関であり、その内容は貧弱なものであつた。所在地は麴町の萬平ホテルで、その秘密事務所は、このホテルの一室を占有するに過ぎない有様であつて、人員も僅少であつた。従ってその活動範囲もスパイ行為の追及のみに限られ、追及の対象は主として外国人であつた。そしてその管轄は憲兵司令官に属して居た。
昭和十五年七月、東條氏が陸軍大臣になると、憲兵政治の好きな氏は早速この機関に眼をつけた。そして直ちにこの機関を大臣直轄とし、その内容を拡充して政治部門と防諜部門の二つに分かち、之をゲシュタポ式の組織とした。その指揮者には三国直福中将を選び、優秀な憲兵将校と政治情報の蒐集に堪能な民間人を起用して機関員とした。この機関を三国機関と呼ぶに到つたのは此時からである。
この機関の存在を知るものは大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。本部の所在地は最初牛込若松町の砲工学校内であり、事務所は同校の気象研究室を充てていたが、太平洋戦争の開始と共に市ヶ谷の陸軍省内に移転した。この機関の特徴は機密費が極めて豊富であつたことと、捜査の実行のためあらゆる最新の科学的資材を完備して居たことである。
科学的捜査資材とはなんであらうか。その一つは録音機である。この録音機は極度に小型な精巧なものであつて、之を部屋の壁の中に装置すれば、その部屋の中で取り交はされる総ての音声が記録せられる。又バンド止め兼用のスパイカメラもある。このカメラは路上で行き違つた人の面影を突差に而も確実に撮影することが出来る。その外に精妙な電話窺取器材,暗号解読の電気装置など近代科学の粋を集めたあらゆる捜査器材を備へて居た。中野正剛氏の東條内閣打倒の陰謀に関し、伸つ引きならぬ証拠を摑んだのは、電話の窃取と交詢社内に装置せられてあつた録音機の賜物である。
東條氏によつて完成せられた日本のゲシュタポである三国機関も、その防諜部門は民間に対してあまりに大なる害毒は流さなかつた。何んとなれば太平洋戦争開始後は内地に於てはスパイ的存在が殆んどなかつたためである。然し政治部門の活動は、アンチ東條の政客や団体を戦慄せしめた。
政治部門に集まつた情報は大小となく殆んど毎日三国氏から東條氏に直接通告せられた。東條氏はこの通告に基いて、必要と見れば直ちに憲兵隊に通じ、逮捕或は取り調べの実行を命じた。
東條氏の性格の最大の欠点は自己を信ずることが極めて強く、偏狭であつて猜疑心の深い所にある。従つて氏は阿諛と佞弁(*ねいべん)を好み、極度に直諫を忌み嫌う。三国機関の政治部門に属する機関員は最もよく東條氏の性格を知つて居た。彼等は東條氏のこの弱点に乗じてその意を迎へ自己の立身出世の具に供した。故に彼等の蒐める情報は概ね東條氏をして満足の意を表せしむるものが多かつた。
昭和二十年(十九年の誤り)七月、人心既に東條氏を去り、客観的情勢は著しく東條内閣に不利となり、その存続は全く不可能となれる状態に於て、東條氏が尚且執拗に政権に囓ぢりつかんとしたのは主としてこの三国機関が東條氏に阿(*おもね)つて、政治情勢の真相を伝えなかつたためである。
太平洋戦争の勃発以後、東條氏が最も力を注いだのはアンチ東條の運動を弾圧することであつた。三国機関の政治部門はこの目的のために殆んど全力を注いだ。
私(*田中隆吉)は東條氏の性格より判断して、三国機関の存在が東條氏の国内情勢に対する判断を誤らしめ国家の運命に暗影を投ずることを恐れ、戦争勃発の直後、三国機関の廃止を進言した。そのとき私*は(*三国機関の)政治部門が流す害毒を詳細に述べて廃止の必要を力説し、若し強いて残置するとすれば防諜部門のみに止(*とど)むべきであると主張したが、東條氏は反対に、戦争の勃発は盛々(*ますます)その重要性を増加したと主張して私*の進言を一蹴した。
三国機関の活躍は巧妙且迅速であつた。昭和十八年一月、東條氏が肺炎を病んで高熱に苦しみ議会の再会(*ママ)を延期したときの話である。その頃私は伊豆の長岡温泉に滞在して居た。ある日の午後大和館の一室で宇垣一成氏と東條氏が退陣した場合の対策に就て密議して居た。会談半ばに東京の憲兵司令部から宇垣氏に向つて、「何を話して居るのか。貴方は何時田中(*隆吉)の所から家に帰るのか」と電話して来た。この一事は私の周囲に三国機関の手先が動いて居り、その行動が極めて迅速であつたことを立証する。
又昭和十九年の春、近衛氏は私に
「私の行動は詳細に東條が知って居る。電話の内容や、訪問客の人等は兎も角会談の内容まで知って居るのには驚く」
と語った。私は(**近衛)氏に対し三国機関なるものの存在とその内容を打ち明けて氏の行動の慎重なるべきことを忠告した。その年の秋、内大臣官邸で木戸氏に面会したときに、木戸氏も私に
「東條内閣時代には私の行動は事細かに東條が知つて居た。電話は勿論、宮中で人に会つたときの話の内容すら知つて居た。今になつてもどうしてあんなに詳しく知つて居たかその理由が判らぬ」
と言った。氏は私が近衛氏の場合と同様に、三国機関の内容を詳細に説明したため始めて疑問を解いた。
中野正剛氏が昭和十八年の九月、警視庁で取り調べを受けたときには、証拠不十分で無罪放免となつた。憲兵は東條氏の命令で再び中野氏を逮捕した。取り調べは厳重を極めたが中野氏は終始頑強に事実を否認し続けた。然し最後に憲兵が、交詢社(*銀座にある実業家の社交クラブ)の一室で中野氏と東方会の幹部とが会談をした内容を録音に依つて中野氏に聞かせたので、流石の中野氏も終に前言を翻さざるを得なくなつた。中野氏の自裁の原因は恐らくこの録音にあるのではなからうか。
(昭和十六年)十二月七日正午に日本に到着したルーズベルト大統領の親電が、同日夜に到つて始めてわが外務省に手交せられ、天皇の手許に到達するのが著しく遅れたのは、この三国機関が裏面に於て活躍したためである。その方法は極めて簡単である。電信線をある一定の時間、遮断すればよい。この種の操作は三国機関に取つては朝飯前の仕事である。翌八日(昭和16年12月8日)、アメリ国務省に手交すべき日本の最後通牒が、予定より遅れて、真珠湾攻撃と殆んど同時にハル長官に交はせさられたのも亦この(*三国)機関の活動の結果である。それは、六ヶ絛から出来て居たこの電文の最後の一ヶ絛を、数時間遅らしたためである。この方法も亦極めて簡単である。前と同様にある時間を限つて電話線に故障を起させればそれで十分である。
昭和十九年七月小磯内閣が成立してから杉山陸相の下に柴山兼四郎中将が次官に就任した。氏は就任と殆んど同時にこの機関を解散した。明敏なる氏はこの機関の害毒がそのもたらす効果に比してあまりにも甚大であることを知つたからである。
私は若し三国機関なるものが存在しなかつたならば太平洋戦争は起つて居なかつたと思う。何となれば東條氏の国内情勢判断の資料は議会の言論や、大政翼賛会が蒐めた報告には全然之を無視して、主として三国機関のもたらす政治情報を基礎として居たからである。三国機関の政治情報が常に東條氏の意を迎ふるに汲々として居たことは既に述べた。彼等は太平洋戦争勃発の直前、只管(*ひたすら)東條氏の開戦決意を狩り立てるのに有利な情報のみを提供した。高慢にして思ひ上がれる東條氏はその情報によつて、一億国民悉く開戦を欲して居るものと速断しアンチ東條の空気は絶無であると過信した。
昭和十六年十二月九日、即ち太平洋戦争勃発の翌日の夜のことであつた。私は三宅坂の大臣官邸に東條首相兼陸相を訪れて、兵務局が蒐めた国民情報を忌憚なく述べた。その要旨は次の通りであつた。
「この戦争の勃発は、国民には全く寝耳に水である。一般国民は国際情勢の推移には全く無知であつて、その真相を把握して居らぬ。故に唯政府の言う所に盲従して居るのがその実情である。然しインテリ階級は、軍部を恐れて口にこそ言はぬが多くは反対である。私の恐るるのはこのインテリ階級の態度である。戦争が長期に亙ると必ずこのインテリ階級の態度が国民に反映する。その結果は反戦思想の台頭となつて、国民の結束が破れる。故にこの戦争は可及的早期に終結せしめねば、惨敗に終るであらう」
之に対し東條氏は不機嫌な態度で次の様に答へた。
「それは杞憂だ。三国機関の情報では、寧ろインテリ階級が挙つて戦争を欲して居る。故に自分は国民全部の信頼があることを確信して居り、この戦争は必ず勝利を以て其局を結ぶことを疑はない」
と。一事が万事である。三国機関が東條氏を誤つた罪は重い。然し誤られた東條氏の罪は更に重い。反省なき思ひ上がれる愚昧が生んだ結果である。・・・(同上書、新風社版 97~104頁、長崎出版版 96~103頁)