徳川慶喜

明治三十四年のころ、有栖川宮が来日したスペインの王族をもてなしたとき、慶喜は夕食会に招待されて出席した。有栖川宮には天皇に引き合わせてもらった恩があり、また生来の外人好きということもあって出席したのだ。その席に伊藤がいた。このとき伊藤は第四次内閣の総理である。夕食会のあと伊藤は無遠慮に質問した。
「慶応三年の十月に大政奉還の決断を下されたけれど、あれには何か動機があったのか、承りたいものです」
慶喜について、伊藤は渋沢栄一から称賛の言葉を聞いていたが、ボンクラの多かった大名のなかでは目立った人物だったとしても、それ以上の人物ではあるまい、と見なしていた。伊藤の親分だった木戸孝允は、慶喜を家康に匹敵する英雄かもしれない、と評価したが、伊藤はそう思っていなかった。慶喜にしてみれば迷惑な質問だった。しかし、答えないわけにはいかない。
「これは改まったおたずねだが、何か見たり聞いたりしたことがあったわけではなく、ただ家訓を守ったにすぎません。ご承知のように水戸は義公以来、尊王大義に心を留めて おり、わたしの父もその志をもっていて、いつも訓していたものです。もし朝廷と本家の間に何か対立があって弓矢に及ぶ事態が生じたとしても、朝廷に弓引くことあるべからず義公以来の庭訓なれば、夢、忘るることなかれ、と教えられていました。といっても、幼少のころはさほど心に留めていなかったのですが、ちようど二十歳になったとき、小石川の屋敷で父が容を改めて、時勢がどう変化するか、まったく見当もつかないが、お前も丁 年(二十歳に達して一人前になったこと)なれば、よくよく父祖の遺訓を忘るるべからず、といわれたのです。その教えをつね日ごろから心に銘じていたので、あの決断はそれに従ったにすぎません」(徳川慶喜公伝)


明治維新後わずか四十数年の短期間になしとげられた明治日本の驚くべき発展は、 世界史の奇蹟ともいわれているが、この明治の国造りに、徳川封建時代のエリートであつた武士階級がいかなる役割を演じたかについて、アメリカの歴史家ハリー・ D・ハルーチュニアン氏が「日本の近代化と武士階級」という研究を発表している。(パシフイック・ヒストリカル・レヴユー(1959年8月)
ハルーチュニアン氏にゆれば、日本の歴史家の多くは、武士階級が明治維新に果たした役割は決定的なもので、そのこと自体が、明治政府の絶対主義的性格を形成したという風に見ており、現在でも「かうした歴史家の手によって、武士は、あの神秘的な、しかも仮借なき“絶対主義"の開幕に宿命的ともいへる役割を演じたといふ不幸な珞印をおされてゐる」。しかも彼らは、「封建秩序の他の残滓とともに、この武士階級が過去のものとなった」と考えていると言う。
こうした日本の歴史学者たちの見解に対してハルーチュニアン氏は、武士階級を新政府の強力な推進力たらしめたのは、当時の政治家の功績であったとハルーチュニアン氏は述べている。

その代表的な指導者は、公卿出身の岩倉具視であった。彼は政府に促した意見書のなかで、「三百年間、四民ノ首トナリ国政ニ参預シ、磨礪スルニ気節廉恥ヲ以テシ、講習スルニ文学武術ヲ以テス。是ニ由テ自ラ高尚ノ気風アリ。士族ハ誠ニ有用ノ重族ニシテ国家ノ元気ト称スべキモノナリ。」
「士族ハ積世涵養ノカヲ以テ其精神ヲ奮揮シ百科二進ムニ足リ、其志向ヲ奮励シ以テ艱苦一耐ユル二足リ、其気力ヲ旺盛-一シ以テ外人ト競争スル二足ル。……学問 百科凡ソ以テ国ノ事業ヲ進歩セシムベキ者、士族ノ性尤モ近キ所トス」
と最大の讃辞を以って士族の素質に期待し、その処遇に強い関心を示した。他の旨導者大久保も木戸も、失業武士の救済制度や士族授産の方法については鋭意腐心した。行政.教育.警察.軍隊など、武士が既にもっていた能力や素養を活用することは容易であった。

政府では転落した武士階級から、大量の人材を登用した。例えば、五ヶ条の御誓文が発布されてから約十年間、中央政府の役職員の七八.三%は士族であった。地方の官職についた者も、全体の七〇%以上は旧武士が占めている。これら武士出身の官吏が、旧藩政府に仕えて十分な経験を積んでいたということは見逃すベからざ る大切な点である。
警察官は殆んどが士族で、幹部の大部分は旧体制下の与力同心などからそのまま 転身した旧下級武士であった。
一八八ニ年、東京帝国大学の全教官六七名のうち四八名は旧武士から抜擢された。 官公立学校においては一八八ニ年、行政職.教育職の総数四三.四六七人中三ニ.四八八つまり七二%は旧士族が占めていた。(帝国統計年鑑)
以上の統計をあげて明治の近代化に貢献した武士階級の役割を、ハルーチッニアン氏は次のように結論している。

「もし明治社会の形成期に弾力性が著しく認められるとすれば、それには整然とした旧士族の吸収過程に負ふところが大きかつたと考へられる。西洋に対する日本と中国のそれとを較べると、この武士の存在が、決定的劇的な相違を示してゐる。日本の武士に例へられる階層は、清には欠けてゐた。
清国の郷紳とは反対に、日本の武士は“中学為体、西学為用(中国の学問を体—とし、西洋洋の学問を用とする)"流の小さな要求はすてることを実際に強ひられた。そして、いわば実存的に、変革と近代化の強い潮に身を委ねたのである。この意味で武士階は、明治における変革のための人材を供給しうる社会的階層であった。したがって、 明治時代における日本社会急速な変貌は、かって封建的階級の人々がになった訓練.教育・指導力・経験などに、大いにあづかつたといつてよいであろう。