2006-05-01から1ヶ月間の記事一覧

甲申事変のその後

国王救出の要請をうけた清国軍が出動し、少数の日本軍を破り、開化派政権は文字どおり三日天下で倒れ、竹添公使は、金玉均らの亡命者とともに長崎に逃げ帰った。この間、混乱したソウルで、居住民約30名が殺された。日本政府は、井上馨を全権として、軍艦…

壬午軍乱のその後

壬午軍乱後、朝鮮は清国と日本にそれぞれ使節団を派遣した。清国に派遣された使節団は壬午軍乱の鎮圧のために直接出兵し協力してくれたことに対する謝礼で、日本に派遣された使節団は、軍乱時に惹起された日本人殺傷に対する陳謝と、済物浦条約の批准交換に…

甲申事件の真実

明治17年十二月四日、京城北部典洞に新設された郵政局の開局式が催された。朝鮮国が万国郵便連合に加入してできた郵政局の開局祝賀晩餐会であったので、京城駐在の米・英・清などの公使、領事らが出席し、当時の朝鮮政府の韓圭稜(前営使)、李祖淵(左営…

甲申事変

甲申事変江華島事件によって日本は朝鮮を開国させ、朝鮮にたいして強力に進出した。そのために清国の地位が失われ、日本の独占的地位がきずかれて行った。しかし、清国は同治中興とよばれる諸政刷新を遂行し、失われた権威を取りも戻すために再び朝鮮に手を…

済物浦条約

花房公使の報告を受けた日本政府は7月31日,緊急閣議を開き対策を協議したが、伊藤博文は外遊中だったので山県の強行意見が支配し、従来からの通商関係の諸問題を一気に解決しようとした。また、この機会に朝鮮領土の一部の分割も目論んでいた。しかし、実際…

朝鮮の金

朝鮮は開港以来開港地では商人たちの間に日本の円貨が信用をえて、取引上ひんぱんに流通していた。そこで、円貨もとより、日本銀行兌換券や手形を流通させた。当時日本から商品が大量に輸入されていたので、朝鮮の商人たちも日本の貨幣を持っておれば、日本…

明治9年、日朝修好条規にとって、朝鮮への日本の圧力がつよまったことは、朝鮮に深刻な打撃を与えた。とくに開国後数年のうちに関税無税の特権を利用し、日本は朝鮮の対外貿易をほぼ独占し、朝鮮国内に、欧米資本主義の工業製品が日本の手を通じて大量に流…