江華島事件の真相

明治9年、日朝修好条規にとって、朝鮮への日本の圧力がつよまったことは、朝鮮に深刻な打撃を与えた。とくに開国後数年のうちに関税無税の特権を利用し、日本は朝鮮の対外貿易をほぼ独占し、朝鮮国内に、欧米資本主義の工業製品が日本の手を通じて大量に流…

日朝修好条規により、米は朝鮮から大量に日本に持ち去られたことは朝鮮の政治的社会的混乱を拡大させ壬午の事変のおおきな原因となった。 壬午の事変は壬午軍乱と言われるように、最初に暴動を起こしたのは朝鮮人の兵士たちです。 朝鮮政府は、大幅な軍政改…

2月10日、6隻の艦船を率い、弁理大臣黒田清隆は江華島に上陸した。鎖国を続ける朝鮮に開国を迫るためである。黒田が上陸のさいに、ガトリング砲を4門装備した海兵歩兵中隊約二百名を儀仗兵として事前に上陸させていた。 この堂々たる軍事的示唆は、かって…

政府は明治9年1月遺韓特派全権弁理大臣黒田清隆、副使井上肇を任命し、6隻の軍艦で対馬から出航し、1月15日、釜山に入港した。同港に2隻の軍艦が入港しており、計8隻に達し、空前の壮観を呈していた。政府の方針は修好条約の締結にあったが、万が一朝鮮より…

長崎に帰港した雲揚号の打電は9月28日夜7時本省に届く。事件は翌々日東京日日が第一報を掲載し、発生を知った郵便報知は事件の確認に手間取り10月2日の紙面で朝鮮が砲撃したのは当然であり、非は日本にあるとする見方のあることも明確に伝えた。その…

明治6年朝鮮王朝では政変があり,大院君が引退し高宗の妃の閔氏派が政権を握った。そこで日本は明治7年から開国の交渉を再開し,日本側の森山茂と閔氏政権の代表朴斉実とのあいだに正式会談が始まった。しかし閔氏政府内に残っていた大院君派が強くこれに反…