日朝修好条規により、米は朝鮮から大量に日本に持ち去られたことは朝鮮の政治的社会的混乱を拡大させ壬午の事変のおおきな原因となった。
壬午の事変は壬午軍乱と言われるように、最初に暴動を起こしたのは朝鮮人の兵士たちです。
朝鮮政府は、大幅な軍政改革に着手し日本と同じく近代的な軍隊を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から、軍事顧問として菊地節蔵陸軍歩兵中尉、堀本禮造陸軍工兵少尉及び美代清濯陸軍工兵少尉を招きその指導の下に旧軍とは別に新式の装備を有する「別技軍」を組織した。
軍の近代化を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も両班の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。
それに加え、当時朝鮮では財政難で兵士には米で支払われていたが、給料(俸給米)の支給が13ヶ月も遅れ生活をおびやかされていた。そして明治15年7月23日にやっと支払われた一か月分の俸給米は、量が不足し、そのうえ砂や糠のまじった悪い米であったため、兵士の不満が爆発したのである。兵士達は倉庫係をなぐり、倉庫を管理している上級の役所の長官で閔妃の一族の一人を襲撃した。
暴動はこうして始まったが、朝鮮は日本との修好条規締結のときから、朝鮮の社会的根幹である米の輸出には反対したことは当然だった。日朝修好条規に基づいて明治9年8月24日に結ばれた貿易規則の6条では在留日本人に限り自らの食糧を買入れできるとした。ところが日本は、朝鮮と合意した条文にあった「在留日本人」を削除して、日本が米の輸出できるようにした条文にかってに書き換えてしまった。
米は大豆とならんで、日本が朝鮮から輸入する商品の大部分をしめるようになった。その結果、米は値上がり、庶民の困窮よる自然発生的暴動が壬午の事変だと思うのである。続く