2月10日、6隻の艦船を率い、弁理大臣黒田清隆江華島に上陸した。鎖国を続ける朝鮮に開国を迫るためである。黒田が上陸のさいに、ガトリング砲を4門装備した海兵歩兵中隊約二百名を儀仗兵として事前に上陸させていた。
この堂々たる軍事的示唆は、かっては4隻の艦隊を率いて来航したペリーは、海兵隊員の水兵に銃を持たせ250名の洋式銃隊を作り、これを伴って久里浜に上陸したことを習ったものであった。

会議は11日から開始され、日本側の要求はことごとく承認され26日江華府練武堂において日朝修好条規が調印された。

この条約の第一条に「朝鮮は自主の邦であり、日本と平等な権利を有する」と規定して、征韓急進派の不満を買ったが、政府としては、朝鮮が清国の属邦ではないことをまず明らかにして、他日朝鮮を日本の勢力下におく一つの前提をつくることを期していた。

本条に基づいて同年8月に調印された両国貿易章程では日本人は日本国の諸貨幣をもって朝鮮国民の所有物と交換できると定め、またその付属文章では、日朝とも輸出入関税は数年間無税とした。

たしかに日朝両国といえば、形は対等であるが、この条項を日本は銀行券をふくむ日本の諸貨幣で朝鮮の物質を無制限に買うことができるとの貿易章程と関連させれば、経済的・商業的には、このときすでに日本は朝鮮を国内市場の一部も同然にしてしまったので、日本の朝鮮に対する経済的侵略は、これより大手をふるってまかり通ることになった。

朝鮮の金銀は、本来は無価値な日本紙幣との交換で大量に日本にもち去られ、朝鮮農民は、米や大豆を日本商人に買いたたかれた。

大資本と小資本との取引はたとえそれが公正に行われたとしても、零細生産者には絶対に不利であるが、日本商人は治外法権に守られあらゆる不正をほしいままにしたから、朝鮮の農民は、たちまち三井物産合名会社や第一銀行を先頭とする日本のえじきにされてしまったのである。

つまり、朝鮮を政治的に従属させ、朝鮮経済を日本資本のほしいままな略奪の場とし、その立場は本条約により居留民の治外法権で守られていた。よってこの条約の意味するものは、実質的には日本が欧米諸国に押し付けられた不平等条約以上に、より過酷な不平等条約だったのである。

日本の産業経済もようやく近代化に道を歩み始め、綿織物なども大量生産できるようになった。製品を欧米諸国に輸出しようとすると、不平等条約により高い関税がかけられていた。日本は朝鮮と隣り合わせの位置にあり、輸送費もかからなかった。日本の政府財閥にとって、朝鮮は新しく有望な経済活動が見込める市場だったのである。続く