政府は明治9年1月遺韓特派全権弁理大臣黒田清隆、副使井上肇を任命し、6隻の軍艦で対馬から出航し、1月15日、釜山に入港した。同港に2隻の軍艦が入港しており、計8隻に達し、空前の壮観を呈していた。政府の方針は修好条約の締結にあったが、万が一朝鮮より開戦になった場合を想定して、政府は山縣陸軍卿に朝鮮遠征軍を編成し、下関に出師準備を整え開戦に備えていた。

政府の方針として国旗が受けた汚辱に対する賠償は求めるが、主目的は修好条約締結であるから、朝鮮政府がこの求めに応じるならば、それを雲揚号の賠償とみなして承諾すること。もし、日本の要求を受け入りない時は、決書の一書を投じて、使節の面目を全うすることであった。井上を副使に任じたのは黒田全権大使の暴走を抑制するためだった。続く