長崎に帰港した雲揚号の打電は9月28日夜7時本省に届く。事件は翌々日東京日日が第一報を掲載し、発生を知った郵便報知は事件の確認に手間取り10月2日の紙面で朝鮮が砲撃したのは当然であり、非は日本にあるとする見方のあることも明確に伝えた。その5日後に同紙に掲載された福沢諭吉の投稿「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」は新聞紙上の論戦の先陣となった。
当時の有力紙のうち非征韓派は朝野、東京日日、郵便報知の三紙、征韓派は東京曙、横浜毎日の二紙で、この時の論争は10月末、廟堂で異論を抱いていた左大臣島津久光、参議板垣退助が辞任するのに合わせて、政府が決めた遺韓使節に移ったことにより終息した。
この論戦は政府の方針不明の間に行われた日本に近代新聞が外交政策をめぐって論争した最初の機会であったのです。

朝鮮との交際は数百年来続いているが、御一新になってから両国の間に葛藤が生じすでに5,6年の談判になっている。しかし、無断で測量をしたり、兵を上陸させようとして、相手より発砲して来たから当方も応じて砲戦した態度は、ただ先方を軽蔑しているに過ぎない。これまでの交際からして、天理において恥ずべき行為なのであった。続く