2016-11-01から1ヶ月間の記事一覧

伊集院兼寛

薩軍士官伊集院兼寛は、つぎのような手記を残している。「戊辰正月三日、幕兵鳥羽伏見両街道に廻り、戦端既に開け、—度達するや、宮中疑懼の念変じて、歓喜の声となり、前には、西郷、大久保の宮中に在るや、蛇蝎の如く、近づくもの なかりしを、陸続来りて…

薩、長、土、芸四藩の観兵式

土佐藩兵を率いてこの観兵式に臨んだ谷干城の日記風の回想録から、当日の模様を見てみよう。「二十七日に至り日御門〔建春門〕前に於て、薩、長、土、芸四藩の観兵式の天覧あり。流石に薩は、服装帽も皆一様にて英式に依り、大太鼓、小太鼓、笛等の楽隊を先…

太平洋戦争の遠因

日本の徳川が支配していた政治を田舎者達が一か八かのクーデターで、いっきに幕府が倒壊し、天下の政権を握った。しかし、倒幕側の田舎者達が政治を興していかなければならなかった。最大の課題は、これからの日本の政治と自分達が政治を動かすことの理由が…

京都薩摩邸において西郷と面会

市来の言によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など貴任者 は俗吏の者を除けて有志の者(尊王討幕の賛成者か)を嵌め込んであり、浪士隊が充分活動できるよぅできるだけ力を尽したとのべている。京都薩摩邸において西郷と面会した様子である。落合君 其夜は…

伊牟田尚平

伊牟田尚平(いむた・しょうへい)(1832〜69年)といわれても、知る人は少ないかもしれない。 明治維新の表の立役者を西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀だとすれば、裏の立役者は伊牟田だったといえる。 米国公使館通弁官のヒュースケン暗殺から、さま…

明治政府の戦争予算

たしかに、異例の圧倒的な勝利ではありました。しかし、そもそも日本軍は実力よりもはるかにカネを借金で用意して戦争に臨んでいたのです。1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド(約13億円)の外貨公債を日…

西鄕

国力を考えれば欧米列強を敵として戦うことなど無謀だと悟り開国路線を取ったのが幕府で、それに反対して外敵を追い払う攘夷を叫んだのが朝廷の公家連中であり、薩長や土佐の志士たちで、幕府を弱体化させたのはこの連中です。この攘夷派を利用して幕府に対…

ベルツの日記

おそらくいつかは叫ばれることだろう。「ああ、困ったことだ!自分の呼び出した精霊(ガイスト)たちから、今では逃れられない!」と。これらの精霊(ガイスト)のうちで最もよくないのは、はき違えたアメリカ渡来の自由精霊(ガイスト)である。もし日本人…

ベルツの日記とW・S・クラークとケーベル博士

「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのま!〕」と わたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは…

徳川慶喜

明治三十四年のころ、有栖川宮が来日したスペインの王族をもてなしたとき、慶喜は夕食会に招待されて出席した。有栖川宮には天皇に引き合わせてもらった恩があり、また生来の外人好きということもあって出席したのだ。その席に伊藤がいた。このとき伊藤は第…

尊皇攘夷

ペリ-の来航以来、日本の政情は大揺れに揺れてはいたが、幕府そのものを否定するものはいなかった。政治的な命題は、開国か攘夷か、であった。幕府にあっては井伊大老が開国策を推し進めたために、攘夷派から目の敵にされたが、それは井伊の思想と存在を否定…