明治政府の戦争予算

たしかに、異例の圧倒的な勝利ではありました。しかし、そもそも日本軍は実力よりもはるかにカネを借金で用意して戦争に臨んでいたのです。

1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド(約13億円)の外貨公債を日本は発行した。

日露戦争当時の日本経済は、名目GNP約30億円、国の一般会計予算約3億円、日銀券発行残高約3億円、全国預金残高7億6千万円というサイズでしかなかった。日本は当時のGNPの2.5倍、国家予算の60年分の負債を積み上げて日露戦争に挑んだ

戦後の政府予算は長く3割以上が国債利払費に当てられ、増税により国民の租税負担は倍増したという。7%で調達した日露戦争の戦時国債の借り換えは太平洋戦争の直前には、今や不可能な水準になっていました。(金利が1940年台には10%→25%超へ)




◆第二次大戦の時はそのほとんどが国債発行でなんとかなった(その代わり対GDP比が20%から一気に125%に増大)のに、なぜ日露戦争の時は外国から調達する必要があったのか

http://www.rieb.kobe-u.ac.jp/academic/ra/dp/Japanese/dpJ78.pdf
http://www.tsugami-workshop.jp/blog/index.php?id=1331482731
当時採用したばかりの金本位 (通貨) 制度が経済財政の運営に厳しい規律を求めていた事情が、戦争遂行にもう一つ重大な制約を課していた。戦争遂行のためには内国でも国債を発行する必要があるが、通貨発行量が増大するから、それに見合う正貨 (金と同視された当時の英ポンド) 準備の積み増しが求められる。さらに、軍艦など兵器の多くを輸入に頼らざるを得なかった当時の日本は、輸入増大に伴って流出する正貨も補填しなければならなかった

さらに内外ともロシア優勢を予想する向きが大勢、日本の発行済み海外公債は (国内の株式相場も) 暴落してしまう。日本政府は開戦必至という段になって、海外公債発行の目処が全く立たない状況に直面したが、高橋是清の活躍により日本の公債は 「ジャンク級から投資適格級へ」 と出世していくのである。


※ちなみに第二次大戦の臨時軍事特別予算は、日露戦争時の100倍。ハイパーインフレを考慮しても異常
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%99%82%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%B2%BB%E7%89%B9%E5%88%A5%E4%BC%9A%E8%A8%88
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/senso_to_gunnjihi.htm

国家日清戦争2.3億円(1963年度の水準に換算して1兆円)
日露戦争18.3億円(同5兆円)
第1次世界大戦・シベリア出兵15.5億円(同4兆円)
山東出兵0.7億円(同900億円)
満州事変19.1億円(同3兆円)
日中・太平洋戦争7558.9億円(同380兆円)
日本は借金で戦争したのである。ただし戦勝による賠償、領土獲得でバランスがとれるという感覚だった。軍事費はほとんどが消耗的経費であり、国民経済に再生産の寄与はしないから、国民が経済的な面でも払った犠牲は大きかった。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1274853112
国家予算の70%が軍事費にアテられてまともな経済を営めるわけがない。



http://ameblo.jp/japan4war/entry-11881530564.html
戦費がどのように使われたかの具体的事例


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10117284260
1903(明治36)年12月に始まり、講和条約成立後の1905(明治38)年12月の第22回議会では、4億5045万円、各省臨時事件費9170万円の予算が計上され、総計では、臨時軍事費17億4642万余円、各省臨時事件費2億3970万余円、合計19億8612万余円に上った。
その財源は歳計余剰金をあてるのはもちろん、国民に献金を訴え、大幅な増税も試みたが、大部分を内外公債募集と日本銀行からの一時借入金で充てようとした。このうち、臨時軍事費は14億9242万円を内外公債募集と日銀借入れで賄おうというもので、その比率は85.46%にのぼった。
内訳
日露戦争のための公債発行は、内国債国庫債券5回、発行額面額合計4億7306万円余。臨時事件公債1回、1億9967万円余、外債英貨公債が4回、同8億56万円余で、外債依存の比重が極めて高かった。当時の日本資本主義の力の限界が現れていた。


http://www.tsugami-workshop.jp/blog/index.php?id=1331482731
当時採用したばかりの金本位 (通貨) 制度が経済財政の運営に厳しい規律を求めていた事情が、戦争遂行にもう一つ重大な制約を課していた。戦争遂行のためには内国でも国債を発行する必要があるが、通貨発行量が増大するから、それに見合う正貨 (金と同視された当時の英ポンド) 準備の積み増しが求められる。さらに、軍艦など兵器の多くを輸入に頼らざるを得なかった当時の日本は、輸入増大に伴って流出する正貨も補填しなければならなかった

さらに内外ともロシア優勢を予想する向きが大勢、日本の発行済み海外公債は (国内の株式相場も) 暴落してしまう。日本政府は開戦必至という段になって、海外公債発行の目処が全く立たない状況に直面したが、高橋是清の活躍により日本の公債は 「ジャンク級から投資適格級へ」 と出世していくのである。

「桂(太郎首相)・ハリマン覚書」 の破棄。日本がもう少し柔軟に南満洲鉄道への外資参加を扱えていたら…その後の日本の歴史も大きく変わっていたのかもしれない」

「日本人の血を代償に獲得した南満洲鉄道……」 のお題目は…日本を満洲固執させ、やがて第二次世界大戦へと導いていく呪文のようになっていく」 (387頁) と評する。軍部を中心に 「おめおめと引き下がっては (緒戦の上海戦などで大量に戦死した) 英霊に申し訳が立たない」 という抗しがたい空気があった。度の過ぎた国民感情、空気がタブーを生み、国を滅亡の淵に立たせる。手短に言えば、帝国日本は20世紀前半期、中国の権益を独り占めし、列強を排除しすぎた。


とはいえ、こうした 「懐事情」 を抱えていると、「長期的安全保障を期する観点から、大陸権益を独り占めせず、列強にも均霑する」 といった路線は支持を得にくかっただろうと思う (「それどころではない」)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.A4.96.E8.B2.A8.E8.AA.BF.E9.81.94
1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0%(償還7年で実質約7.4%)を底として、1905年3月の第3回では4.5%での借り換え調達(3億円、割引発行なので償還20年で実質5.0%、担保は煙草専売益)に成功した。第3回からはドイツ系の銀行団も参加し募集は大盛況、第5回からはフランス系の銀行団も参加し




http://matome.naver.jp/odai/2136214578373977801
※途中からはかなり妄想に基づいた内容になっているので要注意だけれど、序盤の日露戦争についての実際の数字はすごく面白い。

終戦直後、莫大な負債を負ったままハイパーインフレに突入。日本円の価値はとてつもなく暴落。日露戦争の負債には日本人の労働力をいくら注ぎ込んでも足りない事態となります。日本円の価値を最低水準で固定しながら、日本人の労働力の全てを貸主に渡す、いわゆる奴隷状態が1983年まで続いた。そして、日露戦争の負債が解消される(1986年)まで、この水準で、固定相場制が維持されのです。日本円の変動相場が認められたのはその後のこと

日本がポンド建て国債を返済し終えた2年後の1985年、日本はNYにおけるプラザ合意を受け入れ、変動相場制に突入します。貸し主による監督を失った国債残高は、その後無秩序な増加を開始します。景気浮揚を国債発行に頼らなくてはできない体質だけが残された


http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog291.html