伊牟田尚平

伊牟田尚平(いむた・しょうへい)(1832〜69年)といわれても、知る人は少ないかもしれない。
 明治維新の表の立役者を西郷隆盛大久保利通小松帯刀だとすれば、裏の立役者は伊牟田だったといえる。
 米国公使館通弁官のヒュースケン暗殺から、さまざまな尊王攘夷(じょうい)運動にかかわり、慶応3(1867)年には浪士を集めて江戸攪乱(かくらん)工作を指導し、鳥羽・伏見の戦いのきっかけになる。また同年、江戸城二の丸への放火という大胆不敵な行動もとっている。
 伊牟田は神出鬼没で、善積敬助、相良平次郎といった変名を用いていたことからも、その隠密的な活動がうかがわれる。
 もっとも、伊牟田は尊王攘夷の浪士集団と深く交わり、密偵的な仕事を長くしてきただけに、藩の統制から逸脱する自由奔放さがあった。それが魅力でもあったが、最後は命取りにもなった。
 伊牟田は喜入(きいれ)領主・肝付兼善の家来である伊牟田蔵左衛門の二男として生まれた。兼善は小松帯刀の実父。幼名を伊勢吉といった。これは父蔵左衛門が山伏をして伊勢神宮に参拝したことにちなむという。
 一所持(いっしょもち)(門閥領主)の領主の家来は私領士(陪臣<ばいしん>)と呼ばれ、身分も低く禄高(ろくだか)も少ない。そのため、伊牟田家は代々、山伏を兼業していたのだろう。伊牟田は1日30里(約120キロ)を歩く健脚だったといわれるが、山伏の家系ゆえかもしれない。
 しかし、伊牟田は山伏になるのがいやで、15歳のとき、島津斉彬の典医だった東郷泰玄に弟子入りし、嘉永5(1852)年、師匠に従い江戸に参府した。これが伊牟田の視野や人脈が一気に広がるきっかけとなった。
 伊牟田は医学を修めるかたわら、儒者の塩谷宕陰(しおのや・とういん)や安井息軒(やすい・そっけん)の塾で学んだ。
 折からペリー艦隊来航直後である。伊牟田が感化されたのはむしろ他藩の浪士たちである。清河八郎、村上俊平、北有馬太郎、山岡鉄太郎、松岡万などと交わった。
 伊牟田は彼らとの交流を通じて次第に過激になり、藩主に宛(あ)てて建白書を提出するほどになった。これを憂えた領主の肝付兼善は譴責(けんせき)して伊牟田を連れ帰り、謹慎処分とした(川畑利久「維新の志士 伊牟田尚平」)。
 3年後、ようやく謹慎が解ける。万延元(1860)年3月、伊牟田は江戸藩邸守衛のため出府する関山糺(ただす)(寄合、小姓与番頭<こしょうぐみばんがしら>)の従者として随行した。
 しかし、伊牟田の尊王攘夷の炎はいささかも衰えておらず、ついに実力行動に出た。伊牟田は清河八郎の塾に出入りする仲間たちと「虎尾の会」という尊攘結社をひそかにつくる。
 同年12月5日夜、伊牟田たち数人は赤羽中の橋で待ち伏せ、米国公使館の通弁官ヒュースケンの帰路を襲撃した。ヒュースケンは麻布善福寺の米国公使館に帰還途中で、まわりを三名の幕府役人が警護していた。
 「柴山愛次郎日記」(上)によれば、襲撃に加わったのは伊牟田のほか、益満休之助、樋渡八兵衛、大脇仲左衛門、神田橋直助などの薩摩藩士である。一番くじを引いた益満が斬(き)りつけ、落馬したのを見届けてから引き揚げた。
 同日記には「藺牟田子(いむたし)(伊牟田)その主宰なりしと、その功業ほとんど十七士の業(桜田門外の水戸、薩摩浪士たち)に彷彿(ほうふつ)すというべし」とし、伊牟田が首謀者だったとしている。
 ほどなく伊牟田は藩邸を脱走、脱藩浪士となった。

(歴史作家・桐野作人)