関東攪乱

「小島将満、落合直亮、権田直助等は、同主義のために無二の親友なり。常に往来して朝家のすいたいを嘆き、幕府の専横、外夷のばっこを怒り、いかにして王政に復し、皇威を海外に輝かそうと、日夜苦慮するといえども、微力宿意をたっする機会がない。
 慶応3年8月薩土の諸士、続々京都に馳せのぼり、国事に尽力すると聞いて、小島将満ただちに上京し、錦小路その他の公卿および薩土2藩に往来し、西郷吉之助(西郷隆盛)と結び、ついに江戸薩摩藩邸をもって、浪士の屯集所とすることになった。
この周旋は薩摩藩士、伊牟田尚平、益満休之助の斡旋による。
 西郷氏のこの挙については、第一は幕府の施政を妨害してその怒りを買い、もって兵を挙げさせること。第一は関東を擾乱し、幕府をして内顧するところである。幕府軽率に西郷氏の策におちいりしは時なるかな。」(薩邸事件略記)

西觶らは、大政奉還で政局の主導権を奪い返すために、「兵を用ふるに至るも亦己むを得ざる」となり上方に軍事力を集中させることが必要となった。そこで、薩長芸三藩の出兵を促すために、大政奉還をめぐる動きの裏で倒幕の密勅を作成した。これを持って西觶、大久保、小松の三者が、藩論一定のために帰郷して薩長芸三藩の出兵を取り決め11月23日島津茂久と西觶は藩兵を率いて一行が入洛して、武力体制が整った。このころから西觶と計る小島将満が率いる江戸薩摩浪士隊により、幕府の施政を妨害してその怒りを買い、もって兵を挙げさせることを目的とした関東攪乱が始まる。西郷隆盛はかねてから倒幕の端緒をつかむ手段として、江戸三田の薩摩屋敷に勤王浪士を集めていた。薩邸を中心に薩摩浪士隊に委託されるに就いては、その初め西郷・岩下・伊牟田等薩藩士と謀議の折、西郷は多数の兵員を派遣するから、十分各所に活動せられたいとのことであった。西觶に委託された薩摩浪士隊総監相楽総三、水原源一郎らは前々からの実行の方略を計画していた。それは三方から江戸の幕府を脅かそうとするもので、一つは野州に挙兵して東北への口路を押さえ、一つは甲府城を攻略して甲信方面の口許を押さえ、一つは相州方面を襲撃して東海道筋を押え、江戸に残ったものは市中に出没横行して、幕府に刺激を与えるように図ったのである。直助はじめ幹部はそのつもりで計画を立て、西觶が薩長芸三藩の出兵を取り決め11月23日西觶は藩兵を率いて一行が入洛して、武力体制が整い始めると、江戸薩摩浪士隊は四方に活動を開始したのである。
当時の様子を「京都守護職始末2」で述べれば「江戸市街と常、総、野の諸州に盗賊が横行し、民家を劫掠することが連夜絶えないので、民心は恟恟として、ほとんど安堵の心地なく、夜になると闃として道ゆく人が絶えるに至った。幕府は庄内藩主に命じて、江戸市中の警邏に当らせ、きびしく盗賊を逮捕させた。この月22日、江戸本城の後閣から火が出て、ことごとく焼け落ちた。人心はますます驚動した。翌23日夜、賊徒の一隊が庄内藩の兵営を襲って、発砲した。庄内藩はこれに応戦し、互いに死傷者を出したが、賊は遂に敗れ奔って、芝三田の薩摩藩邸と佐土原藩邸に逃げ込んだ。庄内藩は、すぐさまこのことを老中に報じ、指揮を仰いだ。
 翌日、老中、旗下の歩兵隊と前橋、松山、鯖江、上山等の諸藩に命じて、庄内藩とともに、薩摩、佐土原の二邸を撃たせた。それぞれ斬獲したが、余賊は上山藩の隊を衝き、品川から舟で西方へ逃れた。」

慶応3年12月22日の伊牟田尚平が江戸城に放火した。この徳川家の江戸城に放火して炎上させる破壊工作と市中取締に対して薩摩浪士たちの攻撃により、薩摩屋敷で戦いが起こった。これにより薩摩藩の藩論も慎重論から倒幕に一気にまとまったのである。

なお、この事件の報が京都にもたらされると、市来四郎が、その自叙伝中に、「此挙京都に聞ゆ、本藩戦意を決す、翌年1月3日の開戦を見たるは、此挙の発因に依れり」と記している。