2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

明治初年に試みられた米穀輸出

統計上米の輸出は明治五年までは載っておりませんが、明治初年に海外輸出の試みついての形態が青森県徴士として大蔵省に出仕し、貢米の処理に当った飯田巽の手記で次のように述べられている。「是より先(明治五年)井上大蔵大輔計画して廃藩引継の米穀を在…

日本郵船会社の誕生の裏話

薩長政府は、運送、鉄道、鉱山、工場などを運営するが、経営上赤字状態のものが多かった。そこで運送について詳しく述べてみると、維新政権は1870年に洋式船舶による海運業の廻遺会社を起すが、経営不振のため解散して、1871年1月にはその船舶および業務一切…

石川啄木と日清戦争

石川啄木は日清戦争当時の様子を回顧してつぎのように述べている。 「日清戦役の時は、我々一般国民はまだほんの子供に過ぎなかった。反省の力も批評の力もなく、自分等の国家の境遇、立場さえ知らぬものが多かった。無論自分等自身の国民としての自覚などを…

明治と農民一揆2

参考明治六年の地租改正の金納和現制度について大蔵省事務総裁として地租改正にあたった大隈重信の回顧録です。 地租改正後、ナカナカ地方がやかましくて、質は政府の命介に服従せぬ。その時に役人を方々へ出して、我慢せよ五年後にはドゥかしてやるから……と…

日清戦争の結果

1879年の金本位制はこの賠償金の運用によってなされたが、当時の実業界では対清輸出上不利であるという反対論が強かった。それにかかわらず、金本位制を採用したのは、戦後経営が軍艦、兵器、鉄鋼、機械などの欧米からの輸入を必要とし、それには金本位制が…

明治と農民一揆

1868年6月22日に当分の間米穀の輸出禁止を宣言された。この年長野県佐久郡、鳥取県隠岐島、滋賀県蒲生郡に農民放棄する。1869年、農民の世直し運動盛んに行われ、新潟県信濃川流域400カ村・岐阜県土岐・郡上の2郡、島根県神門郡杵築越峠村、富山県下新川郡…

11月12日付 竹添進一郎の報告書

11月12日付の竹添進一郎が伊藤参議と井上参議に宛てた報告書第四号 筆記第一筆記第二ハ小官赴任即下朝鮮之景況ヲ見ルへキ者二俣当春大院君帰国之風説有之国王初メ一統狼狽ヲ極メ候以来支那党ハ在韓之支那武官ニ媚ヲ献シ殆ト奴隷同様ノ醜態ヲ極メ内テ向テハ支…

朝鮮の金と日本

幕末、欧米の商人が日本の金銀比価の開きを利用して、金を日本からもちだした。そのにがい経験を、今度はみずから朝鮮に通用し日本側の治外法権・日本語貨幣の流通・関税免除によって、朝鮮産出の金の日本への輸入も、このやり方を見習った。すなわち、朝鮮…

米の総輸入総輸出(明治期)

米の総輸入 米の総輸出 明治 元年(1868) 436千円 不明 千円 明治 2年(1869) 4,432千円 不明 千円 明治 3年(1870)14,598千円 不明 千円 明治 4年(1871) 1,260千円 不明 千円 明治 5年(1872) ―千円 不明…

金玉均に思うこと

朝鮮では日本と清国との間で、一族をめぐっての派閥争いで、民衆にたいしてはあまりにも横暴だった。これを追い払うために日本の力をしばらく利用しようと考えた青年たちが、中にはいただろうことも、想像にかたくはないのだ。しかし、青年たちが本当に韓国…

米と日本人と朝鮮

開港後の朝鮮からの米穀輸入金額は、韓国経済通史によれば、明治12年度輸入総額61万円で米穀は58.6%であるから36万円、明治13年度輸入総額125万円で米穀は58.1%であるから72万円になっております。ちなみに日本帝国統計年鑑よれば、明治12年度の輸入総額は…

李鴻章

李朝の実権を握っていた関妃政権に対する日本の影響力の拡大、朝鮮米の大量買付けとイギリス製綿製品の輸出を中心とする日本の経済進出に対して、清朝も、李鴻章を中心に、伝統的な冊封関係の枠を越えた積極的な干渉政策を進めることになるのです。しかし、…

幕府と輸入米

慶応3年9月、大阪に米騒動がおこり、江戸には「困窮人の集まり」と称する貧しい人々の運動が起こっていた。たまたまアメリカ公使ヴァン・ヴォールクソバーク一行が江戸市中にはいったとき「われわれが難渋するのは、夷人が渡来して諸物価が高値になったから…

日本人は米を食ってきた、というのは誤解

日本人は米を食ってきた、というのは誤解。 日本人はズット米を食ってきたように思われますが、米だけはありませんでした。雑穀を混ぜていました。江戸から明治、地方によっては昭和30年代まで、米だけというのは非常に豊かな人々。たとえ農民でも、白米とい…

米と日本人

下記の史料は1971年から20年かけては明治時代に育った水俣地方の人々から聞き取りしたもので、大勢の人々たちの協力よって完成したものです。水俣というところは、大正時代に会所が没産して水俣手永の資料も全部散逸した。これほどきれいに文献資料がないと…

井上良馨の報告書

当艦義、海路研究として朝鮮西海岸廻航中、本月20日同国京畿道サリー河砲台より暴発し、夫より戦争に及びし始末、別紙之通に御座候。則日誌、サリー河図面、及永宗城図面等相添、此段不取敢致御届候也。 明治八年九月廿九日 雲揚艦長 海軍少佐 井上良馨 九…

京城の乱の真相 2

・・国王は外国の事情に通ずる者を喜ばれたので、国王の周囲には或は支那派もあったけれども、此時は段々日本派の者が多くなり、洪英樋、徐光範、それに前に左透された朴泳孝等も頻りに出入するにいたった。そこへ竹添公使が帰任して盛んに排支の気勢に油を…

京城の乱の真相

京城の乱の真相・・・されど井上氏が朝鮮に対する好功心は猶止むこと仏国とキンを開きたるに乗じ、朝鮮の野心家を慫慂して内乱を起さしめ、大に其内政に干渉せんとす。朝鮮人金玉均は、又井上氏の計策に乗りて、却て之れを利用し、己の野心を追うせんと計り…

遺書の一節から

1946年シンガポールのチャンギー刑務所で戦犯として死刑になられた方が死の直前に書かれた遺書のほんの一節ですが、「私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。・・・・日本は負けたのである。全世界の今憤怒と非難の真只中に負けたのである。日…