京城の乱の真相 2

・・国王は外国の事情に通ずる者を喜ばれたので、国王の周囲には或は支那派もあったけれども、此時は段々日本派の者が多くなり、洪英樋、徐光範、それに前に左透された朴泳孝等も頻りに出入するにいたった。そこへ竹添公使が帰任して盛んに排支の気勢に油を注ぐ。その中に又金玉均が日本留学の学生を率いて帰国し、自ら宮中に出入する。そうして一同が交々、朝鮮の立ち行く途は日本に依頼する外にないと論じたてた。それが奏効して、従来顧みられなかった日本派の意見が段々内治外交の上に用いられるようになって来た。

 かくて日本の勢力が漸く増加し、従っていわゆる独立派の指頭を見るに至った。この派の主脳者は金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範の四人である。そのころ京城北岳の山腹に新築中だった金玉均の別荘がほぼでき上ったので、右の四人が主人役となり、仲秋の名月を期し観月の詩宴を張って劉大致と私とをとの新邸に招待した。実はこの会合に於いて初めて変乱の具体案が協議されたのである。

 その具体案というのは、この十二月の一日は零月夜で九時ごろから、闇夜になるからこの時に乱を起そうということに決した。すなわち当日は北岳の金氏別荘の新築祝を挙行するということにして、朝鮮官吏及び在留各国使臣の主なる者を招待し、宴たけなわなるころを見計らって、日本から帰った士官学校留学生十七名にことごとく支那服を着せ、かねて用意の日本刀を振りかざして宴席に乱入させ、反対派の大官を殺戮し、あたかも支部兵の乱暴と見せかけて之を国王殿下に奏聞し、もはや日本公使の力を借りるほかはないと申上させる段凝りであった。私はこの計画を詳しく福沢先生に報告した。

然るに仲秋名月の夜の相談がどうやらもれたような様子がある。加之、金玉均が第一危険人物祝されているのだから、予期したほどの人が集まらぬ恐れもある、何とか計画を変えわはならぬと思っていた矢先に、朝鮮国が万国郵便連合に加入した結果、京城に郵便局を設けなければならぬこととなり、日本派の勢力によって同志の一人洪英権を局長に任命し、十二月四日に其開局式を行うことに決った。そこでこの席に各国の人を招待し、同時に朝鮮の大官連を招いたら安心して出席するだろう、そこでやっつけるのが一番よかろうという訳で愈々その日に決定した。洪英棺が余り世間から疑惑をうけていないことも計画のためには有利であった。この計画では、局の門前にある道路の両側に例の士官学校留学生と日本人宗島和作ほか三名を伏せておき、又局の右隣の草屋には予めダイナマイトを仕かけておき、時刻を計って福島春秀に之を爆発せしめ、かくして来客が発火に驚いて逃だすところをかたっはしから刺殺して、反対党を殲滅しようというのであった。
いよいよその日がきた。明るいうちに各国の公使、領事、朝鮮の官吏が郵便局に集った。日本公使は行くといっていて、其日になって急病と称して欠席した。私も家に在ってその結果を待っていたが、九時になって福島秀春がかけ戻って、ダイナマイトが爆発せぬという。それなら草屋に火を放てと命じて帰したが、やがて立派に火の手があがったので、来賓が混乱して逃げだした。まっ先き逃げてきたのが閔泳翊という役人、待伏せしていた宗島和作はこの男から五十円の借金があり、頻りに返済を迫られて兼ねがね癪にさわっていたものだから之を他人の手にかけては男の面目に拘わるとて、跳びだしていって道路の真申で一太刀あびせた。閔泳翊は悲鳴をあげて郵便局へ逃げかえる。騒ぎは益々大きくなり、中には事情を知らぬ日本人の雇員で忠義半分に局の中からピストルをうちだす者もあるという始末。もうこうなったら仕方がない。
 その中に迅樹という者がやってきて、計画が失敗したという。私は之を怒鳴りつけて、国王を引張りだしさえすれば目的は達せられるのだから、金玉均・朴泳孝に其旨を伝えろと命じたが、両氏は之より先きすでに王宮にかけつけていたのである。私は福島に命じて不発爆弾をあらためて敦儀門に仕かけさせた。それがちょうど金、朴両氏が国王の寝室近くに行ったころ素晴らしい努で爆発したので、国王も愈々驚き、両氏に附添われて逃げだすと共に、日本公使を招かれた。そこで竹添公使がお通にかけつけて、国王を一先ず景拓宮に遷し、さらに桂洞官へおいれした。
 それと同時に、かねがね暗殺しようと目星をつけていた者に向って、至急入城せよと通告を発した。それでやって来たのが外衝門督弁閑泳裼?、続いて内街門智弁閔台鏑、それから韓圭礎、芦泰駿、李祖淵、砲撃夏、之等の人々がはいってくると、次々とあちらこちらへ引張っていって殺して了う。内宮の中で王妃のお気にいりの柳在賢も、国王の側に居ったのを外へ引きだして殺した。それで閏家の有力者は大方そこで殺されて了った。之が五日未明のことである。
 五日の早朝には政府の更迭が発表され、洪英櫓は右議政に、金玉均・朴泳孝は承旨に任じ、徐光範、朴泳孝は左右揃盗大将で、徐は左右営僕を兼ね、徐載弼は日本留学生からなる親衛兵士の監督に任ぜられる等、多くの更迭があった。その午後にいたって新政府は御前会議を開き、洪英植が進んで国政改革案を奏上する。さらに有為の人材を聘して開国進取の策をたてしめようということになり、国王は後藤象次郎を招くという内旨を示されたので、私は人を派してこの旨を日本に伝えた。ここまで計画はウマく進んだが、とうとう国王は宮中にお帰りになると云いだされた。朴泳孝はその不可なるを説いて熱心に反対し、国王を奉じて江華島にいたり、仁川にある日進艦を公借りて、日本の援兵をまとったといったけれども、竹添公使は之に反対し、金玉均も不図還御説に賛成したので、遂にその夜国王は王宮に帰られることになった。あくる六日には支那兵が大挙して王宮に攻め上せた。ところで竹添公使は国を棄てて日本兵士と共に日本公使館へ引きあげる。洪英植以下の者はあるいは殺され、金玉均、朴泳者、徐光範等は矢張り日本公使館に逃れて、私と共に日本に亡命した。これがいわゆる朝鮮事変の結末である。
なにしろ古い話だから、多少の記憶ちがいもあるが、だいたい正確な話である。(井上角五郎の手記より)



この事件で、日本人の浪人が参加しておるが、中村四郎兵衛(警官)金太郎(車引)宗島と陸軍から一人でたことは、福沢諭吉の手記により判明しておる。

 十二月六日午後三時、清軍は二隊にわかれ、五〇〇名の一隊は呉兆有の指揮のもとに宣仁門から、八〇〇名のもう一隊は蓑世凱の指揮のもとに教化門から昌徳富を攻撃した。平素、清軍をけなして大言壮語していた竹漆は青くなって、金玉均らの反対をおしきって弱気にかられ撤兵しはじめたことによって事態は大きく変化した。

実は、日本の公使館では、十一月二十五日に金玉均が政変計画を打ち明けて日本軍の支援を要請したとき、「たとえ支那の兵が千名であろうとも、わが一中隊の兵は先に北岳に拠れば二週間、もし南山に拠れば二カ月間は守備できるから、断じて憂うことはない」(軍申日録よる)と豪語していたのである。

申福模、伊景完らの指揮する開化派直系の約一〇〇名ばかりの軍隊は抗戦につとめたが、閔妃はすでに清軍陣営に脱出し、清軍が昌徳宮に侵入しはじめると、国王も閔妃のもとに行くことを固執した。洪英椎、朴泳教と七名の士官学生は、死を覚悟して国王に随行し、他の同志たちは再起を誓って悲壮な惜別の情をわかちあった。国王に随行した洪英植ら二行はすべて清兵に殺され、金玉均、朴泳孝ら九名は日本に脱出し、そのうち徐光範、徐載粥、辺樹の三名はアメリカに亡命した。

金玉均ら一行は日本公使館員たちとともに仁川に脱出し、日本の千歳丸に乗船した。だが、清軍の武力を背景に成立した臨時政府が外務省督弁遼東鏑、同協弁メルレンドルフを派遣して金玉均らの引き渡しを要求すると、竹添は金玉均らに下船を命令したのであった。

金玉均随行した李圭完の回想によれば、「遂に一行は敵に捉ほれて恥を晒すよりは、寧ろ自刃するに如かずと衆議一決した」(古巧記念会忘玉均伝)。ところが艦長辻勝三郎の義侠によって、彼らは辛くも日本に脱出することができた。

日本での金玉均らの生活は悲劇そのものであった。復活した関氏政権は刺客を送ってその生命をねらい、是政府は彼らを招かざる客として、金玉均を小笠笠島、北海道など辺地に軟禁した。六九四年三月十日、朝等旧派の後ろ楯として開化派に敵対していた李鴻章を説得するために上海に渡った金玉均は、刺客洪鐘字に射殺された。