2002-05-01から1ヶ月間の記事一覧

統帥権の流れ

統帥権の流れからいうと、明治になってから政治、外交、軍事のすべてをいわゆる藩閥という同一階層の出身者で取り仕切ったので、統帥権については、さして問題はおこらなかった。大正の時代の幕開きとともに、大正デモクラシーとよばれる時代状況が生まれ、…

天皇が終戦の決断した理由

「昭和天皇独白録」には「天皇が伊勢湾付近に上陸すれば伊勢・熱田両神宮は直ちに敵の敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みがたたない、ここでは国体の護持は難しい」として終戦の決断をしたという天皇の考えが述べられている。当時…

日本軍による日本人の虐殺

1985年2月元首相の近衛文麿は天皇に戦争終結を上奏した。つまり、敗戦はもう明らかであるから、国体と国体護持を守るためには余禄のあるうちに戦争終結に動くべきだと主張したのである。近衛や木戸幸一や宮中グループ、岡田啓介や海軍長老たち、外務官僚吉田…

土方歳三の辞世の句

新政府軍は五陵郭に向かって進軍。歳三は台場山で大勝利を収めるが孤立状態になり、やむなく撤退。予め死を覚悟していた歳三は、小姓の市村鉄之助を郷里多摩の日野に使に出し遺品(写真・毛髪)と辞世の歌を託した。 孤立した弁天台場を救出すべく五月十一日額…

遺書の一節から

1946年シンガポールのチャンギー刑務所で戦犯として死刑になられた方が死の直前に書かれた遺書のほんの一節ですが、「私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。・・・・日本は負けたのである。全世界の今憤怒と非難の真只中に負けたのである。日…

天皇から皇太子にあてた手紙

明治33年に、勅命である皇室令として制定された「皇族身位令」八条は「皇太子皇太孫ハ満七年ニ達シタル後大勲位ニ叙シ菊花大綬賞を賜フ」と定め、十七条は「皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス」と定めた。 これにしたがって昭和天皇は…

坂井三郎

ゼロ戦のエース・パイロットとしていろいろ戦記を書いた坂井三郎は、 講演のなかで 天皇の戦争責任についての見解を問われ、 「天皇に責任はもちろんあります」 「最高責任者は最高の命令をくだすわけでありますから、 そのことに関してはどう理屈をつけても…

輔翼機構

輔翼機構は、天皇が「統治権を総攬」すると規定すると同時に、またその統治権は「憲法ノ条規」にもとづき行使されると規定したものだが、後者に関し伊藤博文は「憲法義解」で「三権各其ノ機関ニ輔翼ニ寄リ之ヲ行ウ」という考え方背景とすることを附記してい…

御前会議

天皇親政の形式によって行われた、天皇親臨による御前会議があります。ここで国家の重大事項審議の為に開催されたものです。 この種の御前会議は、明治天皇の治世時代にはしばしば開かれました。 元老のみ、ある場合には元老と国務大臣および軍の最高の地位…

一億総懺悔2

実質最高権力者とは軍事力も把握しているものとする。すると、日本の敗戦で日本の法はマッカーサーの下位の存在になります。当然、彼の言葉が日本の法の上に存在します。言い換えれば、彼の言葉が成文化されれば、当然、実行行為が生まれ法として機能します…

一億総懺悔

天皇は国家存亡の時でさえ、いつも自らの考えを表明する勇気を持たず、ただ情勢に流されるだけの魂なき人間だったのか、そして天皇個人の問題だけで国民全体の命運を左右する、日本国家とは天皇のことだったのか、このような天皇のために皆死んだのか、と私…

近衛文麿の上奏文

昭和二十年九月二十七日午前十時 於 在京米国大使館 石渡宮内大臣、藤田侍従長、徳大寺侍従、村山侍医、筧行幸主務官 雇従(こじゅう) 定刻米国大使館ニ御到着、玄関ヨリ「フェラーズ」准将ノ御先導ニテ館内ニ入ラセラレ、居室入口ニ於テ「マツカーサー」元帥…

王政復古のクーデター

「勝てば官軍」王政復古のクーデターで暴力によって一時的に政権を獲得したとしても、物理的強制力だけで政権を維持するのは至難のわざであり、第一コストが高く過ぎる。そこで、政権は正当性を賦与する精神的権威が必要となる。日本は国家の機軸とすべきも…