統帥権の流れ

統帥権の流れからいうと、明治になってから政治、外交、軍事のすべてをいわゆる藩閥という同一階層の出身者で取り仕切ったので、統帥権については、さして問題はおこらなかった。

大正の時代の幕開きとともに、大正デモクラシーとよばれる時代状況が生まれ、そこには、新しい世界、新しい生活、新しい時代への夢があった。そうしたう夢が育まれながらも、近づく軍靴のなかでそれらが窒息していった。
大正元年から翌年にかけて、西園寺内閣が二個師団増設問題で国防に関する統帥権を主張し、「陸軍ストライキ」により政局は膠着した。
上原勇作陸軍大臣は、増師問題を理由とし「帷幄上奏」の形式により天皇へ直接辞表を提出して、西園寺内閣を総辞職に追い込み、陸軍の専横により、政府が政治的に揺さぶられてしまった。(統帥権の芽生え)

昭和5年ロンドン条約のときに兵力量を勝手に決めることは統帥権の干犯であり、天皇でなければならない。と一部の運動化が大騒ぎして、そこらじゅうに火をつけて歩きまわった。その結果大騒ぎになり、時代の流れが大きく変わっていく。
当時の民衆の支持は、対支強硬外交に代わって、軍縮の実現に努める浜口内閣への支持でもあった。人々は、武力侵略より平和を願っていた。
しかし、日本は非常な試練にたたされた。
当時の陸海軍は、政治に対して絶対的な威力が統帥権にこんなにあるとは知らなかったが、この大騒ぎで統帥権干犯事件が、浜口雄幸内閣を倒した。(統帥権の確認)
軍部は統帥権の威力にますます自信を深め、いろんな政治運動により軍部も政治意識を目覚めさせた。
(自分達も一人前になろうと思った)
(軍人が政治意識を持つと大変なことになる)
共産主義社会主義、等の政治運動が政治意識を目覚めさせたともいえる。)
そこで、自分達も軍部普及部というのをこしらえたり、新聞班を作ったり、軍部の予算から、宣伝にどんどん金を使うようになった。

翌6年満州事変で陸軍はその統帥権を思うように使いました。
このころから、ニュース映画をつくるわ、ラジオを利用して軍歌を流すわで、軍人さんはハデになってきて、一方に、社会主義的的な風潮があり、ナチスドイツのヒトラーの宣伝がありで、軍部は何かあると新聞で声明を発表したり、記者会見をしたり、対世間的に宣伝をハデにしていった。
また、別な角度から見れば、大正末期の軍縮により軍人の発言権がどんどん失われていく、その恨みが満州事変のあとに、反動からいっぺんに状況はひっくり返りかえった。
満州事変の最大の責任者である作戦参謀の石原莞爾は、はっきりと統帥権の干犯を自覚していた。大元帥陛下をだますのですから憲法違反も自覚していた。(推測)
ところが関東軍司令官の本庄大将は男爵になり、坂垣征四郎大佐は、あとに陸相になります。ともかくみんな出世した。石原莞爾大本営の作戦部長になる。
本庄、坂垣、石原らの満州事変の責任者らは処分できなかった。(処分していたら歴史がすこし変わったかも)
このとき、策謀した関東軍の参謀たちは、まだ少数だったが、なぜなら「満蒙問題解決方策大網」で1年間は動かないと決めていたのいで。それが、3ヶ月後に事変が始まった。
翌7年5.15事件で、犬養首相まで殺されている。その前にロンドン軍縮のあおりで、浜口首相が撃たれている。
「軍人は政治の統制下にあたるのが当たり前」という正論を言い出す者がいなくなりました。(怖い世の中ですね)(政党政治が崩壊した、とい認識が非常に大切です。)

満州事変が起こったときに、陸軍中央は朝鮮軍をもっていこうとして、軍隊の国境越境ですから、大元帥陛下の統帥命令なくしてはあり得ないですから、金谷参謀長と南陸軍大臣天皇のところへ行って、朝鮮軍の派兵をお願いしたが、天皇は断固として断り追い返す。
それで連中は頭を抱えて、どうしようか、と。ところが知恵者がいて、陸軍は閣議に持ち出す。閣議で南次郎ががんばり抜いて、そして首相の若槻礼次郎が「そうか、朝鮮軍はもうでちまったのか。出ちまったものなら仕方がない」と言って、特別予算を計上する。
そして若槻首相が昭和天皇のところにご報告にいくと、

困ったことに天皇は国政のことは「ノー」と言わないという変なキマリをつくっています
から、内閣全員で決めたものならやむを得ない、認める、ということになった。
(この辺に重大な問題があると思う。これはどうしてか、深くヨミをいれる必要がいる。だだし、資料が少ないのでヨミの力がいるが、頭が固い人では無理ですなぁ。)

そうすると天皇陛下が認めた、つまり陸軍にとっては大元帥陛下と天皇はイコールですから、大元帥陛下が認めた、大儀名文も、もはや帝国陸軍にあり、といって朝鮮軍が移動した。

これなんかも、調べれば調べるほどもことにインチキな統帥権干犯もいいところなんですね。

(ということは、当時の指導者(天皇も含む)は統帥権というものがわかっていなかったんですね。)
要するに天皇は国政に対して認めたのであって、統帥権を司る大元帥陛下としては認めなかったんです。(ここをよく考えてください)

ところが陸軍はこれを一緒にして、天皇陛下はイコール大元帥陛下ですから統帥権干犯にならないと・・。(実際は統帥権干犯だ。人はどんなことでも自分に都合よく考えます。)

その後、軍は統帥権を駆使して、思うように政治に介入してきた。
政治、外交、軍事の責任の中枢がなくなっていたから、その後はみんな統帥権という化け物が君臨してしまった。

ところで、統帥権というのはむずかしいので、ひとことで言えば、兵権で、軍隊指導権ですな。
それでその観点から、日本の歴史を見れば、兵権はずっと将軍が持っていましたからね。
ですから、関東武士は京都の後醍醐天皇よりも足利尊氏さんをおれたちのの親分だと思っていたわけです。その意味から見ると、後醍醐天皇は兵権を自分で、つまり統帥権を自分の手に横取りしようとしたことになる。それは非常に危険のことであった。歴史上のこの南北朝時代ですが、ごたごたしたのは。
歴史をみれば、もともと、兵権を天皇はもっていなかったと思う。

柳原二位局、大正天皇のお母様ね、この方の姪で柳原白蓮という歌人がいた。
この白蓮さんが言ってるんですよ、
「私の叔母は若いときに女官として明治天皇にお仕えていた。明治天皇と言うお方は非常に武張ったことがお好きで、近衛の兵を集めて、自分が馬に乗って号令をかけて教練をやっていた。それを女官たちはみんな悪口を言っていた。天子さまは日本中の神主さんの代表で、馬に乗ったり刀を振り回したりするのは天子さまらしくない、天子さまは御張の蔭にかくれて、音も立てないでいらっしゃらねばいけない、とみんなで悪口を言ってたものですよ」というんです。
これがお公家さんに共通の、つまり平安以来の考え方です。明治天皇は兵隊がお好きだったからそんなふりになった、と
結局のところ、天皇が馴れない兵権を握るという形はあまりいいことではなかった。ということですね。明治以降の近代日本はそこに触れると危ない「信管」を抱えていた。
まあ、そういうわけです。それが統帥権についての結論ということになりますか。

白蓮さんには面白い話があるので「白蓮婦人の決断」か「白蓮女史」で検索してください。