2015-01-01から1年間の記事一覧

尊皇攘夷は過度期の便法

尊皇攘夷の思想を利用して若者らが、天下を握った。彼らは、尊皇攘夷は過度期の便法とみていたと思うが、彼らは危険がのぞむごとに、日本人の尊皇の心を利用して、その絶対的な権威のかげで、明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその正統性を確保しなけ…

江戸時代の農民の負担

>幕府が続いていれば、百姓が苦しむだけです、武士はただ農民達の生産物を収奪するだけの獣ですので、こんな時代が続いても良いのでしょうか、私の好きな安藤昌益先生の考えと同じものを感じますが、今の時代でも、労働の生産物を収奪するのは、変わりが無…

阿部正弘

阿部正弘は、ペリーの浦賀来航まで、琉球で外患の緩衝として、来港する欧米艦船と対応しつつ、海防強化の方策を図ります。幕閣の中に海防、外交担当者を設け、その下に海防掛という機関を常設します。海防掛は、頻発する欧米艦船の来航や要求に対処するなか…

井上条約改正案の失敗

回顧禄で林薫伯は下記のように述べている。井上条約改正案の失敗 十九年には、井上氏外務卿として条約改正を各国の使臣と商議し、殆ど成って忽ち廃止するの奇談あり。予が聞く処によれば、井上氏は当時外務大輔たりし青木周蔵氏を信用し、氏が為すままに改正…

尊皇攘夷は過度期の便法

>明治の始め頃、信州の上高地を旅した英国人の宣教師ウエストンは日記を付けていましたがその旅行記の最後に、この国の人々はやがて西洋の諸国を相手に戦争を始めるだろうと書いています、 人権無視の風潮、庶民を軽視する気風は、維新前後において、大きな…

岩倉公実記 中巻

倒幕密詔ノ實行ヲ中止スル事十月二十一日上中山忠能正親町三条實愛中御門經之ニ勅シ給フテ日ク紱川慶喜己ニ政權ヲ 泰還ヲルヲ以テ姑ク其實行ヲ視ント欲ス因テ去十四日薩長ニ潘ニ命スル所ノ亊件ハ宜ク之ヲ中止スヘシ是ニ於テ忠能薩摩藩吉并幸輔其邸ニ召シ之ニ…

明治維新とは

>大政奉還、将軍職の辞任は,徳川慶喜の自発的行動ですが無意味な行動のようにも見えます、同時に領地、領民を返納するのでなければ、いつでも戦を始めるられるわけですので、いつまでも権力を持つことになってしまいます、 武力討幕派が慶喜の排除に熱心で…

倒幕の密勅

>史家や小説家は歴史の結果を知っています、歴史の中の人達は明日の命さえも分からないのです、まず徳川家の石高を零にして,徳川慶喜を殺す事、これが倒幕派の目標です、・・・・・ そうだと思う。・・・汝、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮し、以て…

益滿休之助、伊牟田尚平等をして 東下

大政奉還後に「干戈を動かすに名なし。」よって隆盛、及び岩下方平は合い計り、 「江戸に於て、彼れが施政を妨げて,其の怒を買ひ、事を激せしめ、兵端を開かしむる若かず」と同藩士の「益滿休之助、伊牟田尚平等をして 東下せしめ、以て.事を謀る。」とある…

権田直助翁詳伝

慶応三年十月十四日、討幕の內勅は薩長芸の三藩に下れり。この日、たまたま、征夷大將軍紱川慶喜は、大政奉還の奏請を爲し、翌十五日、其の勅允を得たり。爱におい て、大事は、諸藩會同の公論を以て決し、日常の小事は議奏体奏兩役に於て取扱ふこととなり、…

倒幕の密勅

この年十月四日、徳川慶喜公大政奉還を決し、会津藩主松平容保その英断を称揚して率先賛意を表し、十二日老中、大目付、目付を召して、このことを諮問す。大多数はこれに賛成せるも豊前、播磨、丹後は不満を表し、薩長両藩士等の反乱を警告せりと聞く。十四…

関東攪乱

「小島将満、落合直亮、権田直助等は、同主義のために無二の親友なり。常に往来して朝家のすいたいを嘆き、幕府の専横、外夷のばっこを怒り、いかにして王政に復し、皇威を海外に輝かそうと、日夜苦慮するといえども、微力宿意をたっする機会がない。 慶応3…

小松帯刀

小松帯刀は、大政奉還の考えが将軍徳川慶喜によって表明されるとただちに賛同し、その早急な朝廷への奏聞を求めた。小松帯刀は慶応3年10月16日、西觶、大久保らと帰国する前日の15日、薩摩藩と縁家関係にあった近衛家当主の忠房を訪問し、 「差寄暴発之手…

イカルス号事件

イカルス号事件 海援隊士が良く利用し、事件の発端となった料亭・花月 イギリス人水兵殺害事件とも云い、当時はあまり大きな関心を持たれなかった事件だが、坂本龍馬や土佐藩が此の事件の処理に手間取り、結果的には土佐藩による大政奉還と云う大事業を、二…

慶喜と原市之進

suruya_fukuさん 2010/4/601:24:59(yahoo知恵袋) 一橋慶喜は将軍職を受ける前、原市之進を呼び寄せて相談しています。 「板倉・永井の両人には、先年の御養君の一件をもって辞とせしも、実を云わば、かかることはいずれにてもよし。ただ熟(つらつら)考う…

権田直助先生伝

権田直助先生伝 倒幕の実際運動 慶応三年十月十四日、将軍徳川慶喜は朝廷に大政を奉還した。慶喜の大政奉還は土佐藩の公議政体論を受け入れたもので、その後における政治的企図はもっていた。一方薩長は徹底的に幕府を壊滅すべく、挙兵討幕の密勅を盾として…

大久保利通文書

明治元年一月三日付 去る九日、朝廷大御変革御発表の形体を熟考するに、既に二大事を失はれ候て、皇国の事十に七八は成るべからずと歎息涕泣いたし候折柄、将に三大事を失せられんとす。三大事共に失はれ候へば、皇国の事凡て瓦解土崩、大御変革も尽く水泡画…

武力討幕派

武力討幕派が今を否定するのに急進的であったのは、自己の野望のために新たな権力を造出し、これを把握するためでもあった。西郷・大久保は徹頭徹尾武力討幕派であったから、同じ境遇の者らは彼らを支持したのである。彼らの身分は薩摩藩士であり、藩士にと…

武力討幕派

西郷隆盛・大久保利通、そして木戸孝允・広沢真臣、および岩倉具視、これらの人々は武力討幕の推進者であったわけだから、武力討幕派と呼ぶ。武力討幕論そのものは、尊王攘夷運動の激昂のなかに、真木保臣や平野国臣や吉村寅太郎や、そのような志士の言辞に…

アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 「一外交官の見た明治維新」 

将軍政治の没落 大政奉還から王政復古クーデター 1867年11月16日(慶応3年10月14日)将軍慶喜が大政奉還をしたと外国奉行石川河内守がパークスに告げた。すでに老中小笠原から今後政治は合議制になり天皇の裁可を受けることになると言われていた。勝海舟が内…

王政復古

王政復古の政変の時に、軍事発動があった。御所の内外を遮断するためである。くわえて武力討幕派は、軍事発動それ自体に意味をおいていた。岩下方平・西郷隆盛・大久保利通の三名が岩倉具視に宛てた意見書のなかで、次のように述べるようにである。これより…

江戸薩摩邸焼打 徳富猪一郎

爾來御壮昌奉賀候。當地意外之形勢に立至り、小子も先頃浪花より歸京、無事罷在候。乍憚御安意可被下候。右變態に付、君公早々御上京被爲在候様、朝命相下り、小松家(帯刀)、西、大(西郷・大久保)にも同敷歸國相成、來月中旬迄には、御上京可被爲在候に…

吉井友実、関山糺、伊地知正治

>西郷らが倒幕派なのはわかっている。しかし、その西郷も、大政奉還以後は武力行使一辺倒からの戦術転換をしている。 10月25日、薩摩藩京都駐在の吉井友実は急ぎ益満らに書簡を送り、関東での工作活動の停止を指示。 11月9日には、薩摩藩江戸藩邸留…

西郷 蓑田伝兵衛への書慶応三年十二月十一日

【蓑田伝兵衛への書】 慶応三年十二月十一日 尚々会桑引払い候へば、忽(たちまち)鎮火の模様に御座候。両日中には帰国の説御座候得共、いまだ慥成義(たしかなるぎ)相分からず御座候。 去る八日、容堂侯御出京相成候故、御発表の義も九日に相変わり候処、…

西郷の幕末の立場

>>西觶らは、日本人の尊皇の心を利用して徳川を倒して天下を握った。だから、日本国内では、内乱が10年間も続くのであった。以後国内の矛盾をそらすために海外派兵をしながら、国を纏めて行くのである。無用な戦争を行いながら、明治・大正・昭和の敗戦…

一月一日付簑田あて西郷書簡について

>江戸藩邸焼き討ちの件は、「昨夜、出羽秋田藩、高瀬権平、楠英三郎と申者、御留守居役方付役、遠武吉二方に申し出候は、両人之者共外に五人…田町御屋敷に潜匿いたし居り候處」(一月一日付簑田あて西郷書簡)という連中が、事件後脱走してもたらした情報だ…

明治維新 幕末推移

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は薩摩の体制派により頓挫された。この事態に立ちいたった西郷らが打った手は倒幕の密勅の発給だが、慶喜の大政奉還によって、不発に終わる。少数派の西觶らが次に打って出たのが、天皇の外祖父中山忠能を動か…

薩摩藩焼き討ち事件について

>12月23日の薩摩藩焼き討ち事件について、その報告を受けた西郷が国許に送った報告には「いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。全體九日以来の處、大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を…

明治維新

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は頓挫した。薩摩藩内では、出兵反対の建白書が数多く提出されていた。国元の藩士は出兵反対で、西郷を支持する藩士は少なかった。では、薩摩藩の京都代表とも言うべき西郷が京都詰の藩士の間で支持されていた…

出流山尊皇義軍

>(「出流山尊皇義軍」栗原彦三郎著)P72〜73(「出流山尊皇義軍」栗原彦三郎著) 次に注意すべき人は権田直助である。・・・慶長三年西觶隆盛と謀って江戶薩藩邸に入って関東擾乱の計に参加し、又上洛して岩倉具視の內意を受け、名を刈田積穂と変え王…