江戸時代の農民の負担

>幕府が続いていれば、百姓が苦しむだけです、武士はただ農民達の生産物を収奪するだけの獣ですので、こんな時代が続いても良いのでしょうか、

私の好きな安藤昌益先生の考えと同じものを感じますが、今の時代でも、労働の生産物を収奪するのは、変わりが無いと思うが。それはさておいて、一般的に年貢は、村全体の石高に対してかけられるので、村役人が農家各戸に分担を割り当てて徴仅し、それを領主におさめていました。その年貢率は通常「五公五民」「四公六民」などといわれ、生産物の40〜50%が搾取されていたとするが、それはあくまで建前です。検地はあまり行なわず、一方で農業技術の発達により生産力は年々向上していったので、結果として実質的な税の負担は軽くなっていったのです。一説によれば、実際に支払う率は多くても20%を超えなかったらしい。また、 新田開発がすすみ、耕地は急増した。このため、比較的生活に余裕があったようです。また、一年中重労働をしていたわけでもなく、農閑期はかなり暇だったようです。だが、農村18世紀を境に変貌します。貨幣経済の波に飲まれ、当然、暮らしも変わります。お金の便利さを知った農民たちは、米のかわりに茶•漆.桑といった換金作物を栽培してお金をためるようになる。金で土地を買った者は地主となり、高利貸を始めた者は豪農となり、なかには、貯金で苗字帯刀の権利を買う農民も出た。が、ためた以上に浪費した農民は、土地を手放し、水呑百姓や流浪者に転落します。貧窮化した彼らの多くは家族を扶養できなくなり、堕胎や間引きがさかんに行なわれ、18世紀半ば、人ロは大きく減少した。一気に農民の階層分化が進んだのである。19世紀前半になると、天保の飢饉がこうした状況にますます拍車をかけます。そのうち、農村に流れ込む貨幣に目をつけて、各地から行商人がやってくるようになった。軽業.猿回し、獅子舞を、銭を取って披露する芸人も訪れる。相撲取り. 能役者、歌舞伎役者まで下ってきて興業を行なった。こうして娯楽がにわかに増え、農村に居ながら文化的生活が味わえるようになったのである。しかし、同時に 博打や犯罪も激増し、治安も乱れていきます。そもそも、維新政府は、この臣民の貴重な米を、明治32年まで日本米を輸出して維新高官らの野望である海外進出のために外貨を稼いでいます。