阿部正弘

阿部正弘は、ペリーの浦賀来航まで、琉球で外患の緩衝として、来港する欧米艦船と対応しつつ、海防強化の方策を図ります。幕閣の中に海防、外交担当者を設け、その下に海防掛という機関を常設します。海防掛は、頻発する欧米艦船の来航や要求に対処するなかで、欧米列強の軍事.外交についての情報や知識.経験を蓄積し、ペリー来航を迎えます。そして和親条約、修好通商条約の締結という外交折衝を乗り切って、日本の近代外交への道を準備する役割を果しました。さらに対外交渉史料集を作ります。これは。1850年の安南国船の三河漂着にはじまり1854年の欧米諸国との和親条約調印までの、外交、貿易、渡来、漂着、禁教、海防等に関する文書や記録を国別•部類別に編纂収録します。また鎖国の祖法の形成と展開についての史実を明らかにすることによって、幕府の対外危機への主体的対処に歴史的拟拠を捉供しようとしたものです。これはペリーの来航に当って着手しました。近年における英•露•米.仏の渡来艦船の取扱いと、これに対応する海防施策にたいする記事が多く、とくに各国使節との和親条約調印にいたる外交交渉の文書、記録集として、当面する外交交渉に役立てようとするものでもあったのです。欧米諸国との外交折衝が本格的に開始されると、海防掛は外交往復書翰や応接記録類を交渉の拠り所として近代外交のすべを身につけていきました。そして、つぎつぎに修好通商条約を締結して開国した日本にとって、欧米諸国との外交関係を全面的に開いていくためには、大小目付.勘定奉行らから集められた海防掛という機関では間に合いません。こうして外国奉行という独立の外交担当機関が設けられ、海防掛が切り開いた近代外交の道を拡げ固めていったのです。条約勅許問題や攘夷運動と、欧米列強の条約履行要求のはざま で困難な外交折衝を担い、遣米特使派遣、アメリヵ通訳官ヒュースケン斬殺事件、露艦対馬事件、 両都(江戸.大坂)両港(兵庫•新潟)開市.開港延期交渉、東禅寺(イギリス公使館)襲撃事件、遣欧 使節派遣、生麦事件、下関事件(長州藩の米船と仏•蘭両国軍艦砲撃)、英仏守備兵横浜駐屯、薩英 戦争、英•米.仏.蘭連合艦隊の下関砲台攻撃•破壊等の諸問題をなんとか凌いだ外国奉行らは、開国実施の外交文書を編纂して「通信全覧」が編纂されます。