井上条約改正案の失敗

回顧禄で林薫伯は下記のように述べている。

井上条約改正案の失敗
十九年には、井上氏外務卿として条約改正を各国の使臣と商議し、殆ど成って忽ち廃止するの奇談あり。予が聞く処によれば、井上氏は当時外務大輔たりし青木周蔵氏を信用し、氏が為すままに改正の商議を進行し、終に会議の決議緑に調印するの運となれり。然るに、青木氏が英、独公使と相談して作れる条約案中には、日本の法典を編成することを以て眼目の条件となし、此法典の翻訳は、外国使臣の認可を受けて後に発布すべしといぅ条件あり。井上氏は商議の進行中此事に心付かず、決議緑に調印の後、如何なる筋よりか此事を聞こみけ ん、かくありては、各国公使をして日本政府の立法権に干渉せしむるの端緒を開くものなりとて大に狼狽し、密かに伊藤氏と計り、決議録を内閣に提出するに際し、伊藤氏は大に其非を論じて終に之れを廃案となし、井上氏は责を引て辞職せりという。世間にては、井上氏がかくまでに力を尽して作りたる改正条約案を、一朝にして伊藤氏の為めに破られたるを恨み、 向来水魚の間柄なりしニ氏も、此時より不和となれりとて、此観察に基いて種々の険策を企 てたる輩もありたれど、予が間きたる方真相なりと思わる。其例を挙ぐれば、当時遁信次官 井上氏が伊藤氏と不和となりしを見て真なりと心得、井上氏を推して自治党というを作り、 伊藤氏に対し旗揚せんことを計り、先ず手始として、当時政府に傭いたる独逸人Mosse〔モッセ〕といぅを鹿鳴館に聘し、自治政体の講釈を為さしめ、其党に属する者をして聴聞せしむ。遁信省め奏任官などにて、強て次官に勧められて聴聞に出掛けたる者なども多くあり、 警官の中などにても、井上.伊藤不和となりたる上は、井上に付く方利益ありなどと心得て、 此党に入りたるも少なからず。然るに、井上、伊藤の両氏は其実は不和ならず、従前の通り其交義の厚きを後に聞くに及んで、漸々亡講釈聴聞者の数も減じ、果ては自治党も朝日に霜の解くる如く、いつの間にか消果てたり。予は当時遁信省にあり、弄巧成拙人々の失敗を見て、可笑の事に思いたりし。自治党の創立に干して、野に在りて周旋せしは、益田孝、益田克徳、高梨哲四郎等の諸人なり。

回顧録」は明治三十四年特命全権公使として英京ロンドン駐在していたとき、公務の間に起稿されたものです。「今は昔の記」は、彼が生前時事新報記者に語られたもので、「今は昔の記」よりも本音が出ている貴重な資料です。