2008-04-01から1ヶ月間の記事一覧

陛下、お尋ね申し上げます

「私が深く悲しみとする、おの不幸な戦争の直後、貴国がわが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに感謝の意を表します」1975の秋、ホワイトハウスでの晩餐会の席上で昭和天皇が述べられた言葉。 その帰国直後の記者会見で「私が深く…

日清戦争

我が国人は鉄砲玉一つ放ったら後から附いてくるのは確かだ。実際ズドーンと一発鳴った効果はテキメンですよ。開戦という既成事実は対外硬論を白い眼で見ていた者までをも挙国一致に動員してしまったからね!無邪気なる国人の好戦の心を挑発し扇動することは…

天皇の真意は

「・・・今度の敗戦については何としても陛下に御責任のあることなれば、・・・ 講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をとり被遊、御退位被遊が至当なりと思う。・・・・・」(木戸日記)昭和26年10月17日、木戸幸一(敗戦時内大臣)…

奥崎謙三

奥崎謙三という元日本兵が、終戦直前の南方戦線における軍内部の犯罪、隊長による部下射殺事件や戦地で追い詰められた日本軍が仲間の人肉を食べたという食人事件を徹底的に追求すべく、奥崎は、戦争などの非を認めずまったく謝罪しない昭和天皇に向かって、1…

償いは済んでいるか、否か

戦争責任の現代の問題点(償いは済んでいるか、否か)日本の戦後処理の特殊な三つの事情。 第一点 連合国にとる対日占領が事実上はアメリカの単独占領であり、そこにおいてはアメリカの国益が優先されたことである。対日占領政策の円滑で効率的な遂行という…

張作霜

田中義一首相は、日露戦争直後満州軍参謀として情報収集に任にあたっていました。奉天会戦のときにロシア側のスパイとして張作霜が憲兵隊に逮捕され殺されそうになりました。このとき、田中義一は児玉層参謀長に嘆願して張を助けます。張は田中義一の後ろ盾…

張作霜

田中義一首相は、日露戦争直後満州軍参謀として情報収集に任にあたっていました。奉天会戦のときにロシア側のスパイとして張作霜が憲兵隊に逮捕され殺されそうになりました。このとき、田中義一は児玉層参謀長に嘆願して張を助けます。張は田中義一の後ろ盾…

中村 粲の『大東亜戦争への道』

白を黒という正当防衛論が多いですね。中国が排日、侮日、日本の正当な権益を犯したから、日本は自衛のために立ち上がった、という。日本の敗戦前に、政府・軍部が中国でも朝鮮でも、どこでも出兵するときには、つねにこのように言った。現在でも、日本の侵…

石井ランシング協定

「合衆国及日本政府ハ領土相近接スル国家ノ間ニハ特殊ノ関係ヲ生スルコトヲ承認ス。従テ合衆国ハ日本国力支那二於テ特殊ノ利益ヲ有スルコトヲ承認ス。日本ノ所領二接壌セル地方二於テ殊二然リトス」 これは、1917年11月に日米両国の間でむすばれた中国に関す…

盧溝橋事件の真相2

当時の日本の国防において明確な目標もなく、政戦略もない混迷のなかに陥ってしまったのである。 広田弘毅内閣で決定された「国策基準」は、予算取りの陸海軍国防方針で、国策の基準が日本の進むべき方針を決めるものではなく、陸海軍平分して同額にするため…

盧溝橋事件の真相2

十二年春頃からは、度々、中国の軍隊と天津軍とが、演習其地のとき小競り合いを演じ他がその度に双方の指導者の鎮撫に依って事なきを得た。然るに十二年七月七日夜盧溝橋上から日華両軍に向かって放たれた二発の小銃弾は、終両軍の大境療な衝突を惹起し、運…

盧溝橋事件の真相

そもそも北支の如き、国際的に類例のないほどに、複雑にして危険なる地域に、浅慮にして功名心に富む軍人(軍隊)の活動を、野放しにすることほど無謀のことはない。他国の軍隊が中国にやってきてその武威を発揚し、中国の土地で頻繁に軍事演習を行うこと自…

満州事変

日本は極力隠忍自宣して、満州以外に手出しすべきではなかった。然るに、政府の無力と、軍部の無思慮とによって、北支工作を連鎖として、満州事変がシナ事変となり、日支前面戦争に拡大されてしまった。その原因を尋ねると、日本の政治機構の破壊されたため…

日本の再建の為に

昭和二〇年一〇月一日の毎日新聞所載「日本の再建の為に」の執筆者石川達三氏は次のようにいっている。『日本人は教養もあり日本的性格も持っていたが、人格を持たなかった。この事は重大である。人格をもたない、自律性をもたないのだ。そういう教育であっ…

宗社党

近時関東租借地内二於テ、強盗ノ被害頻々タルハ著名ノ事実トナレリ。コレ上セル宗社党ノ雇兵ノ行為ニシテ、白昼公然強盗ヲ敢行シ、住民ハ堵二安ゼザル状態ナリ、満鉄某理事ハ「都督府ハ其租借地内二盗賊ヲ保護繁殖セシメツツアルモノナリ」ト憤慨シテ訪問者…

西原亀三の夢70余年

日本の一部の者によって巻き起こされた大規模の中国撹乱は、まだわたしが朝鮮にいる時から始まり、八方に飛火して猖獗を極めたものである。それから約半年後、わたしの第一回渡文の頃は、はや大分下火になりかけていた。それでも行く途中、大連から旅順へ分…

パール・バック女史 日本の人々に

パール・バック女史は宣教師アンドリウを父としアメリカの母の肖像であるケアリを母として、中国で育ち、中国の土地利用の研究者で知られるロシング・バック教授に嫁します。女史は東洋の文化と西洋の文化の間の境遇にあり、彼女の作品からみられるように、…

西原亀三4

ある日、青森連隊長をしていた土井市之進という陸軍大佐が、朝鮮を通り抜けて支那へ行った。土井大佐は寺内さんとは親戚の仲である。それが京城を通りながら、寺内さんに挨拶もせずに行ってしまった。坂西大佐からこのことを聞いた寺内さんは、「あいつら何…

西原亀三3

北京に着いたのは六月二十三日であった。北京ホテルにs宿泊し、紹介状をもらている諸家を訪問して、状況を聞き意見を聞いた。まず在支武官の斎藤少将は昂然として語った。 「ヨーロッパ戦争の絶好のこの機会に、日本は長江沿岸を撹乱する。おたがいの戦争に…

西原亀三2

「満蒙における日本の特殊地位」を守ろうとし日本が戦争をおこしたというのだが、その「満蒙における特殊地位」とは、日本の清国侵略の獲物のことである。侵略の獲物を守るために、重ねて本来の持主に戦争をしかけるのは、重ね重ねの侵略戦争ではないかと思…

中国も連合国に一員

アメリカは連合国に20億ドルを融通していました。ところが大戦が長期の消耗戦になり、ロシアの革命運動が発展、イギリス、フランスその他にも革命運動が盛んになります。そこで連合国に対する20億ドルを融通の回収が不安になり、今の世界の体制を維持するた…

西原亀三

、「満蒙における日本の特殊地位」を守ろうとし日本が戦争をおこしたというのだが、その「満蒙における特殊地位」とは、日本の清国侵略の獲物のことである。侵略の獲物を守るために、重ねて本来の持主に戦争をしかけるのは、重ね重ねの侵略戦争ではないかと…

西原亀三

わたしは連日、徐・段をはじめ、その二派の要人と往来して画策した。わたしが支那へ来ていることは、しばらくは分からなかった。しかしついに日本公使館に知れた。林公使は外務省の方針がはっきりしないといって、いままで全然不干渉主義をとっていた。曹汝…