宗社党

近時関東租借地内二於テ、強盗ノ被害頻々タルハ著名ノ事実トナレリ。コレ上セル宗社党ノ雇兵ノ行為ニシテ、白昼公然強盗ヲ敢行シ、住民ハ堵二安ゼザル状態ナリ、満鉄某理事ハ「都督府ハ其租借地内二盗賊ヲ保護繁殖セシメツツアルモノナリ」ト憤慨シテ訪問者ヲ驚怖セシメツツアリ。

上記は西原亀三の夢70余年からのものです。


その他たくさんありますが、前述の報告書の一部に「満蒙二於ケル蒙古軍並宗社党ト日本軍及日本人ノ関係」における「鄭家屯事件ノ真相」の「宗社党」にある最後の言葉です。

辛亥革命によって清朝が滅亡すると、日本の陸軍参謀本部の中堅将校と通謀し、粛親王を擁して満蒙、蒙古を独立させて日本の保護下におくために宗社党を作り、80余名の日本人浪人及び予備下士官などをあつめ郎党として、奉天や旅順におき、勤皇軍と称した。そのうえシナ馬賊、苦力約1500名を順次募集して関東州租借地に宿営せしめ、連日練兵をなし機会を窺っていました。

ところが、袁世凱が死亡し状況が大きく変化します。そのため日本の方針に変更が生じ中止させたれた彼らが盗賊団に変わったものです。

同じ時期に上海の革命に武器を援助したり、山東省で扇動して革命軍を起し騒乱を画策しており、この報告した公使も「我が政府の要路は支離滅裂なる大支方針を画策なり」と嘆いておった。

つまり、日本は清国の動乱の機に乗じて、日本の利権と勢力を拡張すべく、必要とみれば軍事行動も辞さない構えなのであろうと思う。

「右の手に為さんとする事は左の手にて打ち消し、遂に何等の計上すべき成功をもたらさず、その総勘定は、ただ支那の何れの党派よりも感謝されず、而して何れの党派よりも怨まれ、もしくは侮られたるにすぎず」(当時の徳富)

これらの諸事件が示すように、日本は何ら統一的な政策がなく、反革命がわを利用し、あるいは革命がわを利用する。そのあげくに中でももっとも侵略主義的な桂大将のブレインの徳富蘇峰がなげておった。

ここで重要なことは、ここにおいて、それぞれが中国侵略の政治・軍事活動を勝手きままに行なっても、それは何らの処罰もうけず、政府からは国民大衆の前で公然と非難されることさえもないという政治構造ができたことである。

政府と軍部、軍部内では、陸軍と海軍も一致せず、陸軍部内でも参謀本部陸軍省は必ずしも一致せず、出先の各機関にも対立があったが、しかも外部に対しては、政府と軍部内でお互い擁護し合い、国民大衆に対しては、政府も軍部も中国におけるどんな陰謀をも極秘とし、日本の出先の不法無法の行動に対する中国がわの主張は、中国の排日侮日として、国民に対して、一層の中国への批判を助長させて、政府の侵略的政策に利用したのであろうと思うのある