日本の再建の為に

 昭和二〇年一〇月一日の毎日新聞所載「日本の再建の為に」の執筆者石川達三氏は次のようにいっている。

『日本人は教養もあり日本的性格も持っていたが、人格を持たなかった。この事は重大である。人格をもたない、自律性をもたないのだ。そういう教育であった』と。

『日本の再建にあたって、進駐軍司令官の施政の方面に日本の再建を嘱望しなければならないというのは悲惨の極みである。しかし率直に申して、日本の誰に望みをつなぎ得ようか。首相官殿下の烈々たる御覚悟を措いて他に何ものもない。心細い限りである』とある。

石川達三氏は日本の経済的再建の意味ではなくして、精神的・思想的な面での再建のことであり、意識の革新を問題にしておるだと思う。

参照

http://www.ne.jp/asahi/village/good/norinaga.htm
「ただこの場合いちじるしく目立つのは、宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即(つ)こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。儒者が、その教えの現実的妥当性を吟味しないという規範信仰の盲点を衝いたのは正しいが、そのあげく、一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範との緊張関係の意味自体を否認した。そのために、そこからでて来るものは一方では生まれついたままの感性の尊重と、他方では既成の支配体制への受動的追随となり、結局こうした二重の意味での「ありのままなる」現実肯定でしかなかった。」
丸山真男『日本の思想』 岩波新書) ある