2018-01-01から1年間の記事一覧

和魂洋才

維新直後、政府は西欧の文物をとりいれるのに躍起になっていた。民間でも西洋化は著しく進展し、その方向は近代西洋文明の経済力や軍事力に注がれ、日本とアジアの固有な文化や独自の発展について、充分な検討がされたとはいえないのである。文明化の度合と…

薩長政府

薩長政府は、急速に強国を建設することをめざした。そのために多大な資本が必要であったが、必要資金は農民の税によってまかなわれた。維新以後もそれ以前とおなじく、農民が負担していた。 地租についてみてみよう。明治六年に成立した地租改正法のなかに、…

幕藩体制

徳川の時代は権力と権威とが分離していた。公卿は位高くしても禄は少なく、老中は政権を以て大諸侯を御していた。老中は一方で強いように見えるけれども、実際は大諸侯に対して非常に弱い面がある。一方で老中は権力の快感を味わうかと思うと、しかし実際は…

明治の鉄道

築地梁山泊における討論の第一の成果は新橋ー横浜間の鉄道の敷設。大隈は封建制を一掃するには、山河自然の境界を破ることが必要で、それには山野を跋渉(ばっしょう)する鉄道の敷設にしくものは無いと考えた。また豊作、凶作によって国民が蒙る甚大な被害…

伊藤博文サギにあう

新橋・横浜の鉄道敷設の権利は、当初徳川によってアメリカに付与されていた。それを覆したのがイギリスのハリーパークス公使です。 六九年十一月五日、三条太政大臣部で、岩倉、沢 (外務卿)、大隙(大蔵大輔)らがパークスと会見、その助言と推薦により、同月…

維新政府の鉄道事業

利権回収をするかたわら、大蔵大輔大隙重信らが中心となって独自の鉄道敷設計画をすすめた。彼らの考では鉄 道は経済開発の上に必須のものであるのみならず、「別テ非常緩急ノ節戒厳出兵迅速二相整ヒ富強ノ為メ武備肝要 ノモノ二相聞候間一日モ速二相開度儀…

明治政府の方針

「国力を養ひ、取り易(やす)き朝鮮、満州、支那を切随(したが)へ、交易にて魯墨(ロシアとアメリカ)に失ふ所は、亦(ま)た土地にて鮮満にて償ふべし」 (吉田松陰が神奈川条約調印を機に述べた言葉) (『未完の明治維新』田中彰,三省堂選書131ページ…

「女工と結核」と題する演説

石原修は九大医学部で衛生学を専攻した医学士であった。農商務省社会局に入り、紡績工場の監督官として各地を視察してまわった。各地を歩きまわり、数年の精査をへて綿密な基礎資料をつくり,一つを職務上の報告として内務省へ、一つを学位論文として大学へ…

薩長政府の功罪

維新後の薩長政府は、急速に強国を建設することをめざした。そのために多大な資本が必要であった。その必要資金は第一に国民の大半を占める農民の税によってまかなわれていた。維新以後もそれ以前と同じく、農民の負担のもとに成立していたことにかわりなか…

江戸時代における先人の業績

関孝和の数学、いわゆる関流の算学の分布は,非常に驚いたことに、日本のほとんど各地に農業技術と結びついた形でひろがっている。 それに、五十歳まで家業に励んでいた井能忠敬が、地理学の勉強をはじめている。彼の故郷である佐原村の周辺に関流の算学の塾…

陸奥宗光 日本人

明治7年元旦、陸奥は日本人と題する一文を起草、薩長の片方の統領たる木戸にあてた。そして、下野する。 「日本人とは、西は薩摩の絶地より、東は奥蝦夷までの間に生育して、凡そ此帝国政府の下に支配せらるる者みな此称あり。既に此称あれば、各人其尊卑、…

紀尾井坂の変

紀尾井坂の変 島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。 其一、公議を途絶し、民権を抑圧し以て政治を私す (公儀を閉ざして民権を抑圧し、政治を私物化している) 其ニ、法令謾施、請詫公行、恣に…

吉田松陰

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時…

権威と権力

日本の徳川が支配していた政治を田舎者達が一か八かのクーデターで、いっきに幕府が倒壊し、天下の政権を握った。しかし、倒幕側の田舎者達が政治を興していかなければならなかった。最大の課題は、これからの日本の政治と自分達が政治を動かすことの理由が…

女王蜂

西欧の近代化によって自由・平等思想に対置されるものが、日本に実らなかったということだと思う。明治以降に作り出された日本社会では、いまだそこへ到達しえない。それは、まずしく暗い、封建制を濃厚に残した中世の突然変異の変種の社会で、政策の結果に…

国策遂行要領再検討

昭和16年(1941年)10月30日 第65回大本営政府連絡会議(議題:国策遂行要領再検討)資料1: 昭和十六年十月三十日(木)第六十五回連絡会議(『大本営政府連絡会議議事録 其の二』(杉山メモ)96画像左〜101画像右) 資料2:昭和16年…

薩摩藩邸を急襲

朝廷がわでは十二月十二日、西郷・大久保も参与として正式に政府の指導的地位につき、議定の公卿や大名、ことに岩倉及び上佐、越前、宇和島侯らにより、ついに 二十八日、辞官は「前内大臣」と称すること,納地は, 「政務的用途之儀は天下の公論を以御確定可…

木戸の征韓論

明治政府と木戸孝允王政復古の政変は、 慶応3年ー 2月 9 日に起こった。 ここで大活躍したのは、 公家の岩倉具視であり、 薩摩藩士の西郷隆盛、 大久保利通らで、 木戸孝允はまだ長州の山囗に在って討幕出兵の準備に余念がなかった。 木戸が、 京都の維新政…

真珠湾攻撃

予算からいえば、日本には陸軍と海軍という独立した虫食い国家が存在していたのでしょう。お互い反目しながら、日米戦争も遂行した。海軍は予算を獲得するためには、何かしらの根拠が必要である。それはアメリカを仮想敵国とすることです。それが国策として…

明治維新で人々は幸せになったのか

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹 1.明治維新で良いことはあったのか 2.最大の不幸としての兵役 3.小作人と労働者はなぜ生まれたか 4.江戸時代と比較して 5.西郷隆盛の近代化論 今年、2018年は明治維新150年、政府はなにやら祝賀行事…

西郷内閣の功績

西郷内閣の功績(明治4年〜6年) 西郷を首班とする留守内閣は、現在文明の基礎を成す諸施策を、次々と精力的に実行し、かつ外交面でも日清修好条約を成立させるなど、相当な成果を上げている。 この時代、多くの幕臣が起用され、政府の高官に付いた。勝海…

中江兆民

明治22年春、憲法発布せらるゝ全国の民歓呼沸くが如し、先生嘆じて曰く、吾人賜ゝの憲法果して玉耶(たまか)将(は)た瓦耶(かわらか)、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと。憲法…

総力戦研究所

未来の東芝社長、日銀総裁集った「総力戦研究所」 「総力戦研究所」の存在を知っているだろうか。1941年=昭和16年4月に開所式があったばかりの組織である。集められたのは第一線で働いていた官僚、軍人、ジャーナリストらエリート36人である。彼らは30代ば…

一銭五厘の命

一銭五厘とは、戦時中の葉書の郵便料金であったが、実際には、召集令状は役場の職員が持ってきた。つまり、この赤紙が切符代の代わりとなって各家庭に届けられた。一銭五厘という僅かな金額で集めることができるほど価値の軽い兵隊の命、という意味です。 ま…

戦争責任者の問題

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう…

日米修好通商条約の批准書交換

1860年(万延元年)、幕府は、タウンゼント・ハリス初代駐日総領事の勧めもあり、1858年に締結した日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする使節団を米国に派遣しました。1860年2月、使節団一行77名は、米国政府の提供した軍艦ポーハ…

沖縄

〔戦後〕下記は昭和22年、GHQ外交顧問シーボルトはマッカーサーに提出した覚書です。「1947年9月19日(金曜日) 午前、内廷庁舎御政務室において宮内府御用掛寺崎英成の拝謁をお受けになる。なお、この日午後、寺崎は対日理事会議長兼連合国最高司令部外交…

大東亜戦争に至る原因

〔太平洋戦争〕 大東亜戦争に至る原因はシナ事変から起因すると見ることができる。 仮に支那事変を起さず現状であれば、その推移を考えてみると、まず、ヨーロッパ戦争が始まる。 これに米国が参加する。 世界列国は戦争の為に多くの人命を失ひ国力を尽し、…

情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱

[太平洋戦争] 昭和十六年七月二日 御前会議を経て決定 情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱 第一 方針 一、帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て 世界平和の確立に寄与せんとする方針を堅持す 二、帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自…

関東軍特種演習

[太平洋戦争] 関東軍は、「関東軍特別演習」と呼ばれる軍事演習を幾度か行ないました。中でも、ドイツ・ソ連戦開始(6月22日)の直後、昭和16年(1941年)7月に行なわれた演習は、従来実施されていた関東軍の通常の演習とは異なるので、はっきり区…