総力戦研究所

未来の東芝社長、日銀総裁集った「総力戦研究所
 「総力戦研究所」の存在を知っているだろうか。1941年=昭和16年4月に開所式があったばかりの組織である。集められたのは第一線で働いていた官僚、軍人、ジャーナリストらエリート36人である。彼らは30代ばかりで、その平均年齢は33歳だった。
 当時の日本において最良にして最も聡明な(ベスト&ブライテスト)と呼べる35人だった彼らは模擬内閣を作り、一つのミッションを命じられた。
「日本とアメリカが開戦した場合、日本はどうなるのか」
 東京都知事も務めた作家、猪瀬直樹氏が36歳のとき社会に送り出した一冊の本がある。『昭和16年夏の敗戦』。
 猪瀬氏は総力戦研究所に集ったメンバーを取材し、膨大な資料を読み解き、「彼らはなぜ日本必敗と結論付けたのか」という歴史の謎に迫っていく。
 研究所に集った面々にはこんなメンバーがいた。「総理」役の窪田角一は戦後、農林中央金庫理事を務める。当時、猪瀬氏と同じ36歳だった。
 「日銀総裁」役の佐々木直は本当に日銀総裁を務めた。「企画院総裁」役の玉置敬三は通産省事務次官を務めた後、東芝の社長に就任した。
シミュレーションで導いた「日本必敗」
 彼らはシミュレーションのために、「各大臣」は所属組織から産業や軍事力を分析するための基本的なデータを持ち寄り、組織の枠や論理に捉われることなく詳細に分析した。省益を超えて、曇りない目で議論を続けたのだ。
 象徴的なのはあの戦争で日本の命運を握った石油についての分析である。
 彼らは正確な石油備蓄量こそ重要機密のため把握できなかったが、「足りなくなる」と正確に予測していた。たとえ南方に進出して油田を確保できたとしても、日本まで運ぶことはできず、長期戦を耐えるために必要な量は確保できないと結論づけていたのだ。
 現実の歴史では、陸軍、海軍とも実際の石油備蓄量を明かさず「南方にある油田を占領すれば自給体制を確保できる」といった楽観的かつ裏付けの取れない「つじつま合わせ」のデータだけが一人歩きして、開戦の決め手になった。
 開戦後、石油は彼らの予測通りの展開となる。
 彼らはデータ以外でも事実に基づき、論理的に議論するという視点を持っていた。「海軍大臣」役の志村正はあるとき、研究所に講義でやってきた陸軍の軍人とこんな議論を交わしている。
 この軍人は「日本には大和魂があり、これこそがアメリカにはない最高の資源である」と説いた。志村はこれに毅然と反論する。
 「日本には大和魂があるが、アメリカにもヤンキー魂があります。一方だけ算定して他方を無視するのはまちがいです」
 都合の良い精神論と志村の反論と、どちらが正しいかは誰の目にも明らかだろう。志村は「窪田内閣」の閣議でもアメリカに「勝つわけないだろう」と断言した軍人だった。
 事実に基づく議論を積み重ね、1941年8月16日、「窪田内閣」は一つの結論に到達する。「日米戦日本必敗」。
 真珠湾攻撃と原爆投下以外をほぼ正確に予測したシミュレーションを現実の内閣の前で発表することになる。
東條英機の「反論」は精神論だった
 ここで猪瀬氏は歴史に隠された一つの事実を発掘する。「窪田内閣」の報告に、反論した一人の人物がいた事実である。彼は「窪田内閣」の閣議をたまに見学し、この日も熱心にメモを取っていたにもかかわらず反論した。その理屈はこうだ。
 曰く「君たち(※窪田ら)の研究は机上の演習であり、君たちの考えているようなものではない。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく」
 戦争では計算外のラッキーが起きることもあり、それが考慮されていないと批判をしたのは50代の陸相東條英機――。1941年12月、日米開戦時の首相である。
 東條はさらに続けた。
 「なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということでありますッ」
 都合の悪い予測は一蹴され、多く人が知るように日本はあまりにも無謀な戦争になだれ込んでいく。
 口外を禁じられたこともあったのか。それとも、シミュレーション通りに動いた歴史への悔いなのか。彼ら自身も含めて、総力戦研究所のことを振り返る人はほとんどいなかった。
歴史に隠された「あの夏」の出来事
 猪瀬氏の取材を待つようにして亡くなった窪田「総理」の訃報を伝える記事が印象的だ。
1985年10月1日、朝日新聞朝刊

みんなの感想

事実を素直に受け入れる度量の政治家が枯渇している日本です。

開戦有りきの「空気」に流された当時の日本であるが、この歴史の反省が現代の日本に確りと伝えられまた活かされているのか、甚だ疑問に思う今日この頃。

「歴史のなかで自分を位置づける習慣がなくなると、自分が一体どういう人間なのか曖昧な、脊髄のない軟体動物みたいになってしまう」

現代でさえ、日本人は右向け右の精神は変わっていないような、いやさらに強くなっているのでは?

当時の総力戦研究所の物語です。 既定路線の結論有りきではない、冷静な立場による判断が如何に重要であるか、痛感しました。 昭和初期の当時、そこまでコンピュータが発達していない時代でも、シミュレーションでここまで現実に即した結果が出せるものなんですね。 過去に観たドキュメンタリーで、マスコミが開戦ムードを煽り、当時の世論は開戦ムードだったと知りました。 私のイメージとして、開戦は「空気」で決まってしまった感があります。 「空気」に流されない人は凄い人だって思いますし、そうでありたいと切に自分に問いかけたい。

「なぜ、勝てる確率が低そうなアメリカと戦争したか?」 で、答えを一言で言うと、 『上層部にはしがらみがあったので、勝率が低くても戦争するしかなかった。 人間関係や空気で、合理的な結論を優先できなかった』という結論。 今でも大企業で、勝率が悪いビジネスに投資して大失敗するのはよくあるので、納得度はある。

空気や人間関係を無視してズバット合理的に決断できるリーダーがいるんだけど。 そういう人はまず上のポジションまで出世できないから、割とどうしようもない気がする。 そもそも、個人じゃなくてシステム上の欠陥だから。 日本でも、ビジネス界出身の人って政治で活躍できないのが現状だし。

日米開戦は緻密な計算のもとに始められた訳ではなく、なんとなくできた流れに誰も逆らえずに始めたという事がよく分かった。

東條内閣はどのような経緯で日米開戦に至ったのか紐解いていく。昭和16年の一連の会議はもはや日米開戦を全員が納得するためのつじつま合わせでしか無く、”政治”というよりは開戦という結論ありきの”事務”であった。ここには非人間的な独裁者としてではなく、生真面目で制度に忠実な典型的日本人としての東条英機が描かれている。

太平洋戦争は先見性のない人達がおこした無謀な戦争。膨大な資料で当時の様子がよくわかる。昭和天皇東條英機の本当の思い。政府と大本営の関係。「戦争が日常」という空気の中で「戦争のあと」のことを考えられる人がいなかったのか。戦争は武力・兵力だけでなく資源力が必要で、その資源(=資源の豊富な土地)を求めてさらなる戦争が起こるという、負のループだと思った。

その後実際に起こる戦況と酷似するほど高精度のシミュレーションがなされていながら、結果を変えることはできなかった。本文に“目的のために、"事実が"従属させられる”とあるように、政府が総力戦研究所に求めたのは、自分たちに好都合で開戦の理由づけになるようなデータだったのでしょうか。 §統帥部を制御できなかった憲法の欠陥、腹の中では勝てるとは思っていないのに流れに逆らえない閣僚達、そして研究員の一人の言葉にあるように、米国との実力差を知らなすぎた国民、為政者、軍人。その結果日本が失ったものはあまりに大きすぎた。

太平洋戦争直前、総力戦研究所に集められた各界の若手エリート等が極めて正確にシミュレートした対米英開戦のその行く末は日本必敗の結論であり、そして当時開戦阻止のため天皇によって任命された東條は熱心にその発表に聞き入っていた……といいます。しかしその後の顛末は知っての通り、辻褄合わせのように開戦"できなくはない"数字が並べられ、"かつての"主戦論者東條は煩悶悔恨しつつも自らが過去に起こした激流に飲まれるように開戦を決意しました。「空気」とは何で、またそれを前にして自分はどうあるべきなのだろうと考えてしまいます。

加盟国中多い状態でようやくGDPを保てるところなんて、残業を根性で耐えて仕事しろってな精神論の世界だ。 よくも悪くも、自分は結構空気読めないし、組織にいる最低限の空気しか読まないタイプなので声を上げちゃう方なんだけど、そういう人間が増えないと、この国は変わらないんだろうな、と自分を正当化できた笑。 しかし、志村【海軍大臣】の言葉は、戦前の日本にも精神論に犯されていない人間がいたことを物語っていて、少しだけ救われた。 「日本には大和魂があるが、アメリカにもヤンキー魂があります。一方だけ算定して