太平洋戦争の真相

太平洋戦争前に何故、暗殺や、クーデターがなかったんですか?満洲事変の際には5・15事件があり、中国侵略前には2・26事件があったのに、何故、太平洋戦争の前には何も起きなかったんですか?

補足qzpさん;石原莞爾なんかは大反対でしたよ。

toeurさん:やはり内乱が正解でしたね。開戦が少しでも遅れたら、ドイツの劣勢が解って、あの戦争は起きなかったんだから。


内乱になれば殺されるものがあるとしたらそれは内大臣重臣の連中であって、天皇に危害が及ぶことは絶対ない。たとえ天皇に危害があったとしても国体は不動で、なんら問題は無かったと思う。アメリカとの戦争は国民全体を滅亡の深淵に陥れる。近衛、木戸らは内乱を恐れたが、戦争は恐れなかったのです。もし日本が内乱ですこしでも開戦が遅れたなら日本は参戦しなかったと思う。なぜなら、開戦派のだれもがドイツが勝つと思っていたからです。12月05日にソ連軍反攻が始まります。モスクワのドイツ軍を撃退。同盟国として頼りにしていたドイツ軍は、ちょうどこの時期、モスクワ制圧を直前にして猛吹雪に襲われ、戦線の縮小と大幅な撤退を余儀なくされている。同盟国の戦況がいっきに不利な状況へと転じようとしている矢先に、日本は開戦の道を選んだのだった。欧州戦線の情報不足とドイツ軍の力量の過大評価もあるが、最大の原因は、日本の重臣のみなもが自身の保身に走ったからである。

最も奇怪なるは佐藤氏と等しく東条氏の寵児である憲兵司令部の総務部長加藤泊次郎少将が、独断を以て木戸氏に対し、近衛氏の辞表提出に先つこと三日則ち十月十三日に木戸氏を訪問して 「東条氏を総理とするにあらざれば陸軍を統制することを得ない」と強く木戸氏に要望したことである。この加藤氏の訪問は木戸日記にも明かに記されて居る。これこそ純然たる憲兵政治である。憲兵は政治家の最も恐るる所である。この加藤氏の言は木戸氏には余程応えたと見ねばならぬ。

「裁かれる歴史 田中隆吉 P81」

第三次近衛内閣倒壊の寸前、当時の鈴木貞一企画院総裁は、木戸氏を宮中に訪うて

「事態かくの如し、陸軍の態度亦極めて強硬なる今日、真に日米間の妥協を図らんがためには、勅語を奉請して天皇の平和の御意思を明らかにするより他に手段方法がない」

との意見を開陳したとき、木戸氏は言下に

「それでは内乱が起る」

と答えてこの意見には絶対に反対した。

「裁かれる歴史 田中隆吉 P83〜P84」

木戸内府は陸軍を統制出来るのは東條だからというので、東條を後継内閣首班に推薦した。それは内大臣からみれば無理はない。今まで二・二六事件まで起こした陸軍だから、ここまで主戦論のたぎっているときに、もう戦争はやらないということになったら、むろん陸軍の方から何か起こったであろう。どんなことが起こるか、爆弾ぐらいとぶかもしれない、と心配されるのはやむを得ないことである。

補足

東条推薦に至る重臣会議の経緯を特に事こまかに述べるのは、太平洋戦争及び敗戦が所詮は日本の宿命であったとしても、独善的、形式的で、しかも軽佻な当時の軍部を、そのままシンボライズしたかのような東条の下に戦い、且つ敗れたことに対し、八千万斉しくあきらめても諦め切れぬ感情を持っているからである。それは会議の経過が語るように、切迫した時局に対する重臣層の認識の甘さを語るともいえる。当時の国内情勢を大袈裝にいえば、外に戦争に訴えるか、内に内乱に堪えるか、二つに一つを択ぶ外ないような時局ではあった。それほど軍及びそれに引摺られた好戦的の勢いを抑え難い事態だったのである。しかし、対米英戦の何ものたるかを十分に検討し、真に戦争を避けるつもりであったら、清水飛び降り論の東条を奏薦するほどつじつまの合わぬ見当違いはないのである。(P109〜110一軍人の生涯―提督 米内光政 緒方竹虎著)

昭和天皇自身による

「若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏すると云ふので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデターが起こつたであらう」

出典:『昭和天皇独白録』P84〜85