なぜ戦争が継続されたのか

>国民や中堅将校の大部分が日本が完全に敗北していることを知らないので、無条件降伏は怒り狂うこれらの人々よる閣僚の暗殺を引き起こすかも知れないと心配なされて戦争継続を叫けんでいたのでしょう。

昭和二十年五月一日、ヒトラーは自決してデーニッツが総統になったが、翌二日にはベルリンが陥落し、独郡は至る処で連合軍に投稿、八日には遂に連合国に対して無条件降伏をした。
こうなろうであろうということはかねて覚悟していたところであるが、いざ事実となって眼前に現われて来ると、やはり受ける打撃は大きい。この上は日本一国で聯合軍を弓受け ねばならぬ。そしてあくまでも戦いぬき、最後の勝利を獲得することが果してできるであろうか。心あ る者の音しく憂え且つ恐れたところである。
然し、軍部はなお強気を装っている。この間にあって、最も時局に痛心せられたのは天皇陛下であっ た。その御#念の模様を拝して木戸は東郷外相や米内海相と聯絡をとって、時局打開に奔走したその 結果として広田、マリク会談のお膳立ができたのであるが、これがなかなか進涉しない。
米内は「もうこうなれば大局上輩の面目なんか超越して考えねばならぬ」と側近者にひそかに拽ら していたが、五月三十日の重臣会議では、重臣から何か権威ある発言でもありはしないかと多大の期待 をかけて出席した。けれども、文官出身者は軍部出身者に気兼ねをし、軍部出身者は現役首脳者の顔色 を窺うだけで、時局打開の具体的意見は遂に聞くことが出来なかった。
会讓はすでに散会しょうとする。たまりかねた米内は突如「総理をさしおいて潜越であるが、国家の前途につき重臣各位の御意見を承りたい」と発言した。帰り支度にざわめいていた席が一瞬水を打ったように静まりかえって、緊張の色がありありと列席者の面上に漂った。だが、遂に所見を開陳する者なく、後味のわるい思いを残して、ぞろぞろと会議場を出て行った。
この簡単な米内の一言は重臣各自の胸にはピンと響くものがあった。殊に東条は「米内は終戦を講和んでいるのではないか」と強く受取り、帰途阿南陸相を訪ねて陸軍の肚を聞こうとしたが、阿南が留守のため会見できず、秘書官を通じ「陸軍は余程しっかりせねばならぬ」との伝言を頼んで帰宅した。
翌三十一日鈴木首相は左近司国務相その他一、ニの国務大臣を交えて陸海両相と懇談した。そのとき米内は「戦局の前途は全く絶望である。一日も速に講和するようにせねばならぬ」と力説した。これに 対し阿南は「今にわかに媾和問題を取上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促して来た国 民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張し、軍部両相の意 見は完全に対立した。陸軍中堅層の制御ができないから、望みなき戦争を継続するという。一部軍人の ために国民を駆って戦火の中に叩きこむ。そういうことが平気で言われ、まともに受取られていた時代である。そのとき敢然「講和」を口に出した米内の不動の信念は何といっても高く評価されねばならぬ。折角の懇談会も結論は二分したまま散会した。「一軍人の生涯」(緒方竹虎文藝春秋新社141~143)

>国民や中堅将校の大部分が日本が完全に敗北していることを知らないので、無条件降伏は怒り狂うこれらの人々よる閣僚の暗殺を引き起こすかも知れないと心配なされて戦争継続を叫けんでいたのでしょう。

阿南陸軍大臣は「今講和問題を取り上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促してきた国民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張しています。

陸軍中堅層の制御ができないから、望みなき戦争を継続するということが平気で言われ、まともに受取られていたのである。国民は事態を知らない。一、二度爆撃を受けるなり、本土上陸されて初めて、国民も終戦への機運に向かうという。つまり、戦局を正確に知らされていない国民に惨禍を味わわせ、怒り狂うこれらの人々に知らせるために戦争を継続するということであろうか。