日本のいちばん長い日

>「日本のいちばん長い日」に登場する天皇は如何にも国民の事を思う誠実な天皇であるかのように描写されているが、是は事実とは全く、違う。

「日本のいちばん長い日」の作中では、昭和天皇が降伏を決定した8月14日正午から、天皇自ら玉音放送で国民に終戦を知らせた8月15日正午まで、この24時間に起きた事件や人々の葛藤を描いている。しかし大事な事実が欠落してたんなる物語になっている。実際は次の通りである。
8月14日早朝、米国磯は大量のパンフレットを東京に投下します。これには今までの経過が印刷されていて、日本国民は、政府が隠していたことを知ったのである。ポツダム宣言が外務省で短波受信された翌28日、戦争推進に都合の悪いものは削除されたり、改竄して各新聞紙上に発表されていた。
この日ことを木戸は、次のように述べています。
「私の補佐官がパンフレットの一枚を拾ったと言って私のところに持って来た時、私は起こされたばかりで、朝食を済ましていなかった。このパンフレットは東京一帯にばらまかれ、その一部は宮城の中の庭にも落ちた。情勢は重大であった。軍人は降伏計画について何も知らなかった。彼等がそのパンフレットを見たら何が起こるか分らないと思った。この状況に驚いた私は宮城に急行し、天皇に拝謁を仰せつかった。8時30分頃であった。私は天皇に首相を謁見せられるよう奏請した……」
天皇は早速事態の急を知り、鈴木に伺候するよう命じた。首相は木戸が天皇に拝謁している間に、宮城に到着していた。木戸は鈴木に状況を説明し、最高戦争指導会議を開く準備があるかどうか尋ねた。
木戸は、「……首相は垂高戦争指導会議を開くことは不可能である。それは陸海軍の両方が降伏について考慮する時間をもっとくれと要求しているからであると答えた。ここで、私は首相に緊急処置を講じなければならないと言った。私は戦争を終結に導くため、閣僚と最高戦争指導会議の合同会議を開くことを提案した。その後、首相と私は天皇のところに行き、そのような会議を命令されるよう奏請した。首相と内大臣が一緒に天皇に拝謁を賜ったのは始めてであった。このようなことはこれまでになかった」と述べている。そして天皇は全閣僚、枢府議長および最高戦争指導会議の全員に午前10時半に参内するように命じた。それに先立ち10時20分天皇杉山元・畑俊六・永野修身の三元帥を召致し、「皇室の安泰は敵側に於て確約しあり…大丈夫なり」と述べ、回答受諾について「元帥も協力せよ」と命令した。天皇自身が召集する御前会議は午前11時50分頃から宮中の防空壕で開催され降伏が決定されます。
日本が8月14日の天皇の命令が行われるまで、戦争が終結しなかった理由は、戦争犯罪人の処罰も日本側で行うという、武装解除は日本側で自主的に行う、保障占領は行わないという条件を主張していたからです。一般的に「一撃を加えてより有利な条件を引き出す」ため「有利な条件」とは、このことです。この中で「戦争犯罪人の処罰も日本側で行う」ということが、天皇も最後の最後まで拘っていたからこそ、この日まで戦争の終結をみなかったのです。

参考
「なお木戸に突っ込んで、一体陛下の思召はどうかと聞いたところ、従来は、全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ、それをやるようなら最後迄戦うとの御言葉で、武装解除をやれば蘇連が出てくるとの御意見であった。
そこで陛下の御気持を緩和するのに永くかかった次第であるが、最近御気持ちが変った。二つの問題もやむを得ぬとのお気持になられた。のみならず今度は、逆に早いほうが良いではないかとの御考えにさえなられた。
早くといっても時機があるが、結局は御決断を願う時機が近い内にあると思う、との木戸の話である。(高木惣吉『高木海軍少佐覚え書』

終戦に手間取るあいだにも国民の犠牲は増え続けていた。14日から15日早暁にかけてB29二五〇機が七都市を焼夷弾攻撃し、高崎、熊谷などが全焼して数千名が死傷します。
天皇や木戸らは、国民が真実を知ることにより「民心の悪化」を恐れ、アメリカではなく国民に対して「国体」の危機を感じとっていたのでしょう
ポツダム宣言では、連合国は日本人を民族として奴隷化したり、国家として破壊する意志はないことをうたっている。そして、言論、宗教、思想の自由を、人間の基本人権と同様に尊重させるようにする、と言明している。また日本を支配して来た無貴任な軍国主義が、完全に一掃せられる時は、日本に経済を支える工業を維持し、国民に平和な生産的な生活を営ませることを許可すると保証を与えています。ポツダム宣言は日本が降伏する上において国民にとってはもってこいの条件であったのです。ところが、国民にはポツダム宣言を改竄して知らしめています。ポツダム宣言が外務省で短波受信された翌28日、戦争推進に都合の悪いものは削除されたり、改竄して各新聞紙上に発表されます。ところがそれにもかかわらず加瀬俊一氏は当時の状況を、次のように書き記している。
「一般の感想は、予期よりも遥かに寛大な条件であるということだった。国民は戦争に疲労し、軍部に不満であったから、宣言を密かに支持し始めた。この宣言受諾によって、祖国が全滅から免れ、国民が軍部の圧政から解放され、直ちに平和と生活が回復されるのならば、このくらいの代価は己むを得ないではないか」 (加瀬俊一ミズリー号への道程)
アメリカからのポツダム宣言の原文を見る限り、復讐的なものから遥かに離れて日本が降伏する上において、決してそんなにきつい条件ではなかったのです。

日本が降伏を拒んだ理由はポツダム宣言十条にあります。ポツダム宣言十条「われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようと する意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人 に対しては厳重な処罰を加える。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的 傾向の復活強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想 の自由並びに基本的人権の尊重は、確立されなければならない」のなかにあった「われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える」一文があったからです。もちろんこの十条も国民に対して改竄して知らしめています
どうせ処罰されるなら最後まで戦う、ということが本音で、「国体の護持」は降伏をしない名目であったのです。そして、戦争終結を望んでいた人々も「国体の護持」はそれを主張するための名目になったのである。
加瀬俊一は次のように述べている。「独断専行の軍部は依然として国家の運命を勝手に操っていた。彼らは闘争をあきらめるという考え方を一瞬たりとも抱こうとせず、そんな考えを頑強に拒んだ。しかし彼らの信念ととも、急速に崩れ去りつつあることは誰の目にも明らかだった。ドイツは脱落した。…・戦争継続がまったく無駄なことはもはや常識だった。にもかかわらず軍は継続を欲した。軍の立場はまさに絶望的だった。‥‥敗北が目前に迫りながら軍部指導者は狂気のように国民を最後の戦いに奮起するようあおり立てた。どうせ自ら滅びるならば、国民をもその道連れにしようとしたのだ」

参考
「かやうに意見が分裂してゐる間に、米国は飛行機から宣伝ビラを撒き始めた。 日本『ポツダム』宣言受諾の申し入れをなしつゝあることを、日本一般に知らせる『ビ ラ』である。 このビラが軍隊の一般の手に入ると『クーデター』の起るのは必然である。
 そこで私は、何を置いても、廟議の決定を少しでも早くしなければならぬと決心し、 十四日午前八時半頃、鈴木総理を呼んで、早急にに合議を開くべき命じた。
陸軍は午后一時なら都合がいい、と云ふ、海軍は時刻は明瞭でなかった、遅れては ならぬので、こちらの方から時刻を指定して召集することと、し午前十時としたがいろ いろな都合で十一時ときめた。
 陸海軍では、会議開催に先〔だ〕ち、元帥に合って欲しいと云ふから、私は皇族を除 く永野、杉山、畑の三元帥を呼んで意見を聞いた。 三人ともいろいろな理由を付けて、戦争継続を主張した。
 私〔が〕今、もし受諾しなければ、日本は一旦受諾を申入れて又、これを否定する事 になり、国際信義を失ふ事になるではないか、と彼等を諭している中に会議の時刻が 迫ったので、そのまま別れた。
 午前十一時、最高戦争指導合議と閣議との合同御前合議が開かれ、私はこの席 上、最後の引導を渡した訳であるーーー」『昭和天皇独白録』

 「無条件降伏を緩和または解明せよと議論が、漸増しつつ、我が方の傍聴所を通じて流入した。これらの報道は、適切な分析ののち、毎日遅滞なく政府要路に配布された。このうちには、もちろん、陛下も含まれていた。」加瀬俊一著『日本がはじめて敗れた日』

加瀬俊一東郷外相秘書官らは「(ザカライアス放送の内容は)実は、(天皇の)お耳に入っているんです。入るようにしたのは我々です。」と述べ、天皇の弟宮である高松宮を通じて伝えたという。(NHK国際放送ラジオ・ジャパン「終戦の条件を探れ」1991・8・15)